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開成、麻布、灘…なぜ名門私学に通うと人生が変わるのか? 明治維新と創立者の歴史

文=おおたとしまさ/教育ジャーナリスト
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 麻布の創立者・江原素六(1842-1922)は、江戸の下級武士の子として生まれた。苦学して西洋の砲術を身に付け、19歳の若さで幕府の武術講習所・講武所の砲術世話心得に抜擢される。幕臣として長州征伐などに参加するが、大政奉還。鳥羽・伏見の戦いでは江戸に敗走するも追いつめられ、一度は切腹を覚悟する。それを引き留めたのが近藤真琴(1831-1886)。江原の洋学の師であり、現在の攻玉社の開祖でもある。

 大きな変革の中にいることを自覚した江原はなおも抵抗を続ける幕臣たちを鎮撫しようとしたがかなわず、自らも市川・船橋戦争に加わることになる。そこで敵に殺されかけ、すんでのところで部下に救われる。朝敵として追われる身となった江原は、徳川宗家が転封された静岡藩の沼津に身を隠した。

 恩赦によって「罪」を赦されると、沼津兵学校を統括するなど沼津を拠点に活躍。1871年には欧米視察団の一員として渡米もしている。その後、キリスト教に改宗。板垣退助(1837-1919)と出会い自由民権運動にも力を注ぐようになる。

 実は麻布は江原がゼロからつくった学校ではない。当時明治政府からキリスト教教育を否定され経営難に陥っていたミッションスクールの東洋英和学校を立て直すために、断腸の思いでキリスト教との関係を断ち、それを麻布中学にリニューアルしたのだ。

 佐野鼎と江原素六の共通点は、維新の「負け組」あるいは「非主流派」というだけでなく、早くから西洋式の砲術を学んでいたこと。いまでいえば最先端のITやAI(人工知能)技術をいち早く身に付けていたということになろうか。また、若くして海外の空気に触れている点も似ている。

浅野、武蔵、の創始者の援助を受けた巣鴨

 時代が移って大正時代(1912-1926)には、教育熱が高まり、1920年代には多くの学校がつくられた。1920年浅野、1921年武蔵、1922年巣鴨、1927年灘など。

 浅野は実業家・浅野總一郞(1848-1930)が、アメリカ視察で見た、工業地帯での職業教育プログラムを模して設立した学校。浅野は、加賀藩が治める富山国の医家の生まれで、「セメント王」として名を馳せた。日本における「資本主義の父」であり徳川慶喜の家臣でもあった渋沢栄一(1840-1931)とも親交が深かった。

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