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それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論

文=森達也/作家・映画監督・明治大学特任教授、「オウム事件真相究明の会」呼びかけ人
それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論の画像1「真相究明の会」のスローガンは「麻原にほんとうのことをしゃべらせよう」だったが(写真:ロイター/アフロ)

 6月13日に当サイトに掲載した江川紹子氏による記事「「真相究明」「再発防止」を掲げる「オウム事件真相究明の会」への大いなる違和感」。オウム真理教元代表・麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚はじめ、7名の元幹部の死刑が執行される以前に掲載されたこの記事は、6000以上のツイート、2000以上の「いいね!」がつくなど、大きな反響を呼んだ。

 江川氏はここで、6月4日に立ち上がった「オウム事件真相究明の会」の主張や活動目的などについて批判的に言及したが、今回、同記事に対して、真相究明の会の呼びかけ人のひとりである森達也氏から反論が届いた。長文ではあったが、編集部で手を加えることなく、ここに掲載する。 

「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論

 人は同じ景色を見ても違うことを考える。ニーチェは「事実はない。あるのは解釈だけだ」という言葉を残したが、それは情報の本質だ。コップは上や下から見れば円だけど、横から見れば長方形だ。さらに現実に起きる事件や事象は、コップのように単純な形ではない。多面的で多重的で多層的だ。だからこそその形は、視点によってくるくる変わる。

 ……情報に接しながら、僕はいつもそう考えている。メディアが提供するすべての情報は、記者やディレクターやカメラマンなど誰かの視点(バイアス)を介在している。人は見たいものを見て聞きたいものを聞く。それは僕も同様だ。撮影しながらフレームで状況を恣意的に切り取る、そして編集で取捨選択する。それがドキュメンタリーだ。客観的な事実などと口が裂けても言わない。言えるはずがない。作品として提示できるのは主観的な真実だ。事実など撮れない。人によって違うのだ。でも多くの人は、誰かが見たり聞いたりしてフィルタリングした情報を、たったひとつの真実とか客観的な事実だなどと思い込む。

 ジャーナリストの定義をひとつあげれば、自分が提供する情報に対しての負い目を常に持つことだと僕は思っている。だってそれは客観的な真実では決してない。主観的な真実なのだ。その負い目を抱えながら主張する。後ろめたさを引きずりながら記事を書く。歯を食いしばりながら撮影する。ジレンマだ。引き裂かれる。でも目を背けないこと。楽な道を選ばないこと。周囲に迎合して自分の主観を抑え込んだり裏切ったりしないこと。

 僕は映像や文章に依拠する表現行為従事者だ。ジャーナリストではないが、負い目や後ろめたさはいつも抱えている。だからこれまで、自分と違う意見に対して、「嘘だ」とか「デマだ」などと全否定したことは(よほどでないかぎり)ないはずだ。真実と虚偽は簡単に区分けできない。グラデーションがある。木々の葉は緑一色ではない。幹も茶色一色ではない。いろんな色が混在している。混じり合っている。そのグレイゾーンが世界だ。

 でもオウム真理教関連、特に麻原彰晃が関わる領域では、この多面的な認識が消えて1かゼロ、正義か悪、黒か白的なダイコトミーがとても強く発動する。オウムは絶対的な悪。ならばそれに対峙する自分は絶対的な正義。これが座標軸になるからだろうか。だからこそ自分と違う意見を100%否定したくなる。デマだとか嘘だなどと罵倒したくなる。そんな人がとても多い。

 そもそも議論は苦手だ。事実は視点によって変わるという意識を持っているからこそ、自分と異なる視点を全否定することにためらいがある。なるほどこの人にはそのように見えるのか、と思ってしまう。でもコップについて、4つのタイヤがあって道路を走っていたとか掃除のときに使う道具であるなどともしも断定されたなら、さすがにそれは違うと声をあげねばならない。だってまさしくオウムは、戦後日本で起きた最大の事件であり、同時代に生きる僕たちはこの事件の内実を後世に語り継ぐ主体なのだから。 

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