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それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論

文=森達也/作家・映画監督・明治大学特任教授、「オウム事件真相究明の会」呼びかけ人

 読むべき裁判資料を読んでからものを言え、と主張するのなら(それは一面的には正しい)、僕は同じ言葉を江川氏に返す。麻原の訴訟能力に問題はない(つまり詐病なのだ)と断言するのなら、せめて精神鑑定書くらいは目を通すべきではないのか(しかもこの時点で確定から何年も経っている)。それなりのボリュームではあるけれど、裁判関連資料に比べれば大した量ではない。正式な鑑定の条件を満たさないままに(つまり宮台真司の言葉を借りればモドキ鑑定)行われた西山詮医師の鑑定がいかに主観的で結論ありきであったかについて、ここで少しだけ触れておきたい。例えば(麻原の)失禁について西山医師は、

「なお、『失禁』という言葉には既に病的評価が付着している。起こったことを虚心に見れば、それは大小便の垂れ流しである。この行為は必ずしも脳疾患の症状ではなく、又、必ずしも重い心因反応の症状でなければならないものでもない。それはいざとなれば健康な人の誰もができることである(鑑定書61ページ)」

 と記述している。「虚心に見れば大小便の垂れ流しである」とはどういうことだろう。「いざとなれば健康な人の誰もができること」だから異常ではないと言いたいのだろうか。「いざとなればできること」ではあっても、その「いざとなれば」のハードルが際立って低いときに、人は正常な意識状態ではないと見なされるのだ。いざとなれば誰もができることの論理を援用すれば、精神の病など存在しなくなる。

 要するに詐病であることを西山医師は前提にしている。でもそれでは鑑定ではない。詐病であるかどうかを含めて鑑定すべきなのだ。意志の発動については、以下のような記述もある。

「被告人が車椅子に戻って座り、右手を軽く丸める形にして右膝の上に置いていたので、その拇指(ぼし)と人差し指の間に鑑定人が鉛筆を黙って置いたところ、3本の指が微妙に動いて鉛筆を把持(はじ)し、更には鉛筆の中ほどを3本の指で持って、くるくるとプロペラ様に振ってみせた。(中略)鉛筆を取り戻そうとすると、被告人は右手で強く握って離さない。鑑定人が引っ張ると、被告人はいよいよ硬く握り締める。(中略)以上の検査から判明したことは、意志発動が可能で、鉛筆を握って離さないことも、これを離すこともできるということである。逆に言えば、握る能力はあるのに握らないことがあるということである(66ページ)」

 鉛筆を握ったり握らなかったりしたから、意志発動は可能である(訴訟の当事者となるだけの能力を保持している)ことが証明された。要約すればそういうことになる。ならば乳幼児やアライグマにも訴訟能力はある。ラッコだって被告席に座れるはずだ。

 こうした空疎なレトリックの積み重ねで、麻原は訴訟能力を失っていないと鑑定は結論付けた。これを根拠に麻原法廷は一審だけで打ち切られた。その理由を江川氏は、以下のように記述する。

 控訴審で公判が開かれずに一審での死刑判決が確定したのは、弁護人が提出すべき控訴趣意書を提出しなかったためである。

 確かに提出すべき控訴趣意書を提出しなかったことはきっかけだ。でも2006年3月21日、一週間後の3月28日に控訴趣意書を提出することで裁判所と合意したことを、弁護団は公表した。このままでは控訴棄却されるからやむをえないとの判断だ。被告人と意思の疎通が図れないので控訴趣意書を書けない(だから治療したうえで裁判を進めてほしい)と主張してきた弁護団としては、これは敗北宣言に等しい。

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