「通史」、というのは、実に難しい専門家泣かせの分野です。多くの場合、各時代各分野の専門家に執筆を依頼し、だれか一人が編集者として全体にまとまりをもたせる、という手法が一般的。
しかし、わかりやすさや読みやすさ、という部分を重視するならば、ある程度、文学者や作家の手を借りることで、わかりやすく説明できるものであることは確かでしょう。その意味では、百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎)には期待するところもありました。
ただ、先にお断りしておくと、この本はCコードの0021ではなく0095に類する書であるという点です。つまり「日本史」の本ではなく、あくまでも「日本文学・評論・随筆・その他」の本です。本書の帯書きには「壮大なる叙事詩である」とあり、同時に「日本通史の決定版」と記されています。したがって、本書を読む場合は、この2つの側面をどうとらえて、どう評価するかということになりそうです。
とくに、筆者が文末表現で「推測にすぎない」「~を示す資料はない」など独自見解については明示されているので、その部分は評せず、「通史の決定版」としての側面での評を中心に進めたいと思います。
また、私自身は高等学校で歴史を教えているので、その立場・視点からの指摘もさせていただくことをご了承ください。
さて、「通史」は以下の(1)~(5)の手法・形式・留意点が必要であると私は思っています。
(1)歴史「を」説明することに軸足を置くか、歴史「で」説明することに軸足を置くのか。
(2)その説明を「断絶論」で説明するか、「連続論」で説明するか。
(3)その理由は、「テコ」で説明するか、「合力」で説明するか。
(4)一つで全体を説明しない。全体で一つをおろそかにしない。
(5)最近の研究と定説化は違う場合もある。紹介することと定説として示すことは別。
(1)歴史「を」説明することに軸足を置くか、歴史「で」説明することに軸足を置くのか
(1)について、『日本国紀』を要約し、筆者の主張をまとめると、
「日本は、すばらしい国で、素晴らしい人たちが活躍してきた歴史がある。しかし、GHQの占領政策、戦後の教育によってその歴史がゆがめられた」
ということになりそうです。歴史の出来事をアナロジーとして日本の素晴らしさ、日本人の素晴らしさを説明していく、という筆者の思いが込められていて、この点は「叙事詩」的な部分なのでしょう。