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木村貴「経済で読み解く日本史」

過大評価されていた聖徳太子? 見直される“政敵”蘇我馬子の功績

文=木村貴/経済ジャーナリスト

国際感覚に富んだ蘇我氏

 崇峻天皇の暗殺を受け、蘇我馬子の姪である推古天皇が初の女帝として即位し、推古の甥である聖徳太子が摂政となる。かつて教科書などで描かれた推古朝のイメージでは、聖徳太子が政治の中心として冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣といった新しい政策を実行し、一方で蘇我馬子は太子の改革の邪魔をする抵抗勢力だった。

 今ではこの図式は修正され、推古の下で太子と馬子が共同統治をしたというのが通説とされる。しかし太子は馬子にとって妹の孫にあたり、娘婿でもある。年齢も40代前半だったとみられる馬子に対し、太子は19歳。同格の立場で共同統治をしたとは考えにくいと歴史学者の水谷千秋氏は指摘する。

 実際は、当時権力の頂点に位置したのは推古と馬子のコンビであり、太子の打ち出した政策は推古と馬子の庇護・承認の下に実行された可能性が大きい。

 冠位十二階(603年)と憲法十七条(604年)は、第1次遣隋使(600年)と第2次遣隋使(607年)の間に制定されている。これはこの両制度が、世界帝国である隋と交際するための、文明国としての最低限の政治・儀礼制度だったことを示す。冠位十二階は中国の制度を模範に世襲制を打破し、憲法十七条は中国由来の儒教思想のほか、仏教や法家の思想も読み取れる。

 これらの外交交渉や制度設計にあたり、馬子が配下にある渡来人の情報や知識を利用しなかったとは考えにくい。国際感覚に富む蘇我氏のバックアップがあったからこそ、聖徳太子の政策は実現したのだろう。
 
 馬子の没後、大臣の座は子の蘇我蝦夷(えみし)、その子の蘇我入鹿(いるか)が継ぐが、645年、大化の改新(乙巳の変)で入鹿が殺され、蘇我氏本宗家は滅びる。

 蘇我氏は国内で血なまぐさい所業にも手を染めたが、権勢を誇った100年余り、得意とする外交で東アジア情勢を乗り切り、平和を保ったことは高い評価に値する。大化の改新後、日本は中央集権化を進め、白村江の戦いという無謀な戦争に乗り出していく。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
坂靖『蘇我氏の古代学』新泉社
倉本一宏『蘇我氏』中公新書
吉村武彦『蘇我氏の古代』岩波新書
熊谷公男『大王から天皇へ』講談社学術文庫 
加藤謙吉『渡来氏族の謎』祥伝社新書
平林章仁『蘇我氏と馬飼集団の謎』祥伝社新書
水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』文春新書

木村 貴/経済ジャーナリスト

木村 貴/経済ジャーナリスト

経済ジャーナリスト。1964年熊本生まれ、一橋大学法学部卒業。大手新聞社で証券・金融・国際経済の記者として活躍。欧州で支局長を経験。勤務のかたわら、欧米の自由主義的な経済学を学ぶ。現在は記者職を離れ、経済を中心テーマに個人で著作活動を行う。

Twitter:@libertypressjp

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