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江川紹子の「事件ウオッチ」第119回

考察【落合陽一×古市憲寿対談】…命と人権が経済的に語られるようになった時代への違和感

文=江川紹子/ジャーナリスト
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 こうして古市氏がつくった土俵の上で、落合氏も「終末期医療の延命治療を保険適用外にする」論を披瀝。医療現場や災害時のトリアージについての理解不足もあって、話はリアリティを欠き、要するにコストは自分で支払え、という命の格差にもつながる展開になってしまった。

 自分がよく知らないことまで、知識の断片をつなぎ合わせて「解答」を出そうとするから、こうなるのではないか。

 落合氏自身、問題は自覚しているようで、後日、自身のブログで丁寧な反省の弁を書いている。こういう柔軟で率直な対応は大いに評価すべきだろう。

 ただ、ここで考えておきたいのは、若手論客として注目されている彼らが、なぜこのような発言を展開したか、だ。表面的で断片的な知識を充分咀嚼することなく結論を急いだ彼らの問題もあるが、それだけでは片付けられないような気がする。

 その背景のひとつは、超高齢化少子化社会、社会保障費の増加、そして国の借金が年々増えていることだ。

 2019年度予算案によると、社会保障費は高齢化への対応や幼児教育無償化などで、過去最高の約34兆600億円(ちなみに、防衛費も過去最高の5兆2600億円)に達した。一方、歳入は68兆8000億円の見込みで、新規国債発行額は32兆6600億円。

 国債依存度は1999年度に37.9%になって以来、3割超えが続いている。借金頼みの財政運営が続いた結果、国の借金に当たる国債残高は、2019年度末には897兆円に達する見通しだ。1月6日付毎日新聞によれば、日本の経済規模(国内総生産=GDP)に対する債務残高の割合は今年、236.6%に達する見込みで、ドイツ(56.0%)に比べると4倍以上。

 これらの負担は、若い世代にのしかかっていく。そのことへの焦りや拒否感が、より強力な「コスト削減」へと彼らを駆り立てているのではないか。

 とりわけ落合氏は、対談中6回も「背に腹はかえられない」という表現を使っている。高齢者の延命治療の自費化も「考えないと。背に腹はかえられないとなれば――」と言う。

 それにもかかわらず、有権者は高齢者が多く、政治家は票田を気にするので、結局若い世代が割を食う。古市氏の「長期的には『高齢者じゃなくて、現役世代に対する予防医療にお金を使おう』という流れになっていくはずなんだけど、目の前に高齢者がものすごい数いるわけだよね」という言葉には、ある種の被害感情ものぞく。

 2人を批判している世代の中高年層(もちろん私も含めてだが)は、こうした発言が生まれる土壌が、自分たちがつくってきたものであることは、よくよく自覚しなければならないと思う。

命や人権の問題が経済で語られるように

 今回の対談は、平成を振り返りつつ、次の時代を展望するのがテーマだったが、終末期医療や安楽死といった、人の命や人権にかかわる問題が、個人の尊厳や個々の死生観ではなく、もっぱら「コスト削減」という観点で語られていたのは、実に平成らしいといえる。人の命や人権の問題を、こうした経済活動にかかわる言葉や発想で考えるようになったのが、まさに平成という時代だったからだ。

 その象徴的な言葉が「自己責任」。新聞のデータベースを検索してみると、昭和の時代はもっぱら投資などに関する記事で使われていた。「投資は自己責任で」「資金を自己責任で運用する」などのように。

 平成に入ると、「冬山登山は自己責任で」「人生の様々なリスクに備える自己責任時代」などという表現も見られるが、いずれも「様々なリスクを考え、しっかり準備する」という文脈で用いられており、「(遭難しても)助ける必要ない」などという意味はない。

 ところが2004年4月に、イラクで日本の若者3人が現地の武装勢力に拉致された時から、新たな用法が加わった。「自分でなんとかしろ」といった意味に加え、「どの面下げて助けを求めるのか」といった罵倒的用法も現れた。

 きっかけは、小池百合子環境相(現在は東京都知事)の「危ないと言われている所にあえて行くのは自分自身の責任の部分が多い」という発言だった。

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