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伝説のキャバレー「ハリウッド」、60年の歴史に幕閉じる…その栄華と高度経済成長遂げる昭和

文=編集部
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絵画のコレクター

 福富氏は浮世絵を中心とした絵画にも造詣が深く、コレクターとして知られていた。

 浮世絵といえば、江戸時代中期の浮世絵師、東洲齊写楽の正体探しがブームになったことがある。写楽は、きわめて短期間だけ活躍して、ふっと消えてしまった。一体、写楽は誰だったのか。多くの玄人、素人が入り乱れて、写楽の正体探しで盛り上がった。福富氏は『写楽を捉えた――浮世絵新発見』(画文堂、1969年刊)を著わして参戦した。

 現在では、写楽は阿波徳島藩主・蜂須賀家お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛とする説が有力である。

 福富氏は「福富太郎コレクション」を収蔵する洗足池美術館の館主を務めていた。「週刊現代」(2013年6月1日号/講談社)で、「稼いだ金はすべて名画に費やす」と語っていたように、情熱を絵画に注いだ。

 そのコレクションの白眉とされているのが、美人画作家、岡田三郎助の傑作『あやめの衣』であった。岡田は、黒田清輝と久米桂一郎の天真道場の出身で、明治29年、白馬会の創立に参加した人物。洒脱な性格で、芥川龍之介や泉鏡花、水上瀧太郎ら文士とも親しく交際していた。

「週刊現代」で福富はこう語る。

「あの絵はね、実は五千万円で買ったんですよ。それで暫く持っていたんだけれども、その年に大きく赤字が出てしまってね、二億一千万円前後、と。どうしようか、と考えていたら、ポーラ化粧品の鈴木常司さんが買ってくれた。二億五千万円位でした。それで、中間決算で、二億の赤字を埋められたんですよ」(「週刊現代」より)

 同じく福富コレクションの白眉とされている、藤田嗣治の『千人針』についてのやりとりも面白い。

 戦後最大の経済事件といわれた関西の繊維商社イトマンの経営に介入した許永中は、美術品を買い集めていた。イトマンが破綻した後、許永中が買い集めた美術品は、競売に付された。この時、福富は『千人針』を100万円で入札した。

「イトマンの帳簿では、一億二千万円になっていたらしいの。で、私はね、百万で入れてみろ、と云ったんですよ。そうしたら、仲介人がブルっちゃってね、恐いって。でも、いくら許永中だって競売で人を殺したりはできない、と。オークションで安く入札したから殺された、っていう例しはこれまでないだろう、って云って入札させたの。そうしたら百万で落ちましたよ」(同)

 お金を遣うことについて、こう語っている。

「それは、店ですね。どんどん出しましたよ。競争相手は田舎にまで出していたけれど、僕は都心にしか出さなかった。博品館ビルの『ハリウッド』は、千坪ぐらいありましたから。池袋も大きかった。ホステスさんが千人いましたからね」(同)

「キャバレー太郎」は銀座の歴史に名をとどめる

「ハリウッド」の本店である「銀座ハリウッド」は、銀座の歴史を語る時には必ず登場する。

 もともとは1899年創業の帝国博品館勧工場。勧工場とは百貨店の原型で、今日のショッピングセンターのように全館がバラエティに富んだテナントによって構成されていたという。明治時代の東京名所を描いた土産物の版画(錦絵)の中に、博品館の時計塔を見ることができる。

 1921年、4階建ての近代ビルへ改築され、銀座の商店で初めてエレベータを設置して評判になった。「百貨店」という言葉を初めて使ったことでも知られる。関東大震災で百貨店の営業を断念。戦前は、その地に著名なカフェ「銀座パレス」があった。そして戦後、一時期「銀座ハリウッド」が店を構えた。

 78年、博品館は創業80周年を機に、現在の10階建てのビルを新築し、玩具店「博品館TOY PARK銀座本店」や「博品館劇場」として営業を再開して今日に至っている。

 福富氏は「銀座ハリウッド」で大成功を収めた。まぎれもなく、昭和と平成の時代を駆け抜けた銀座人士であった。
(文=編集部)

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