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木村貴「経済で読み解く日本史」

白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?

文=木村貴/経済ジャーナリスト
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 奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。

 また、平安時代初期の歴史書『続日本紀』によると、讃岐国(現香川県)出身の錦部刀良(にしごりのとら)ら元兵士4人が白村江の戦いから実に44年後に帰国する。唐で賎民に落とされていたが、日本から来た遣唐使に偶然出会い、運よく連れて帰ってもらうことができたという。

 こうした幸運な例を除けば、捕虜となった人のほとんどは異国の地で亡くなったとみられる。

戦争に負けても構わない?

 倭国軍はなぜ敗れたのか。多くの歴史書では、唐軍が国家軍で、訓練されて統制のとれた軍隊だったのに対し、倭国軍は豪族軍の寄せ集めで、地方豪族が配下の農民を徴発して連れて行っただけだったことが敗因とされる。

 唐の国家軍は上下の統制、横の連絡が取れ、日常的に訓練を受け、作戦の浸透が迅速だった。一方、倭国軍は豪族同士の連携や連絡がなく、おそらく兵に武器も行き渡っていなかった。攻撃の練習くらいはしたかもしれないが、もともと農民だから、実際の戦場では戸惑うばかりだったと思われる。

 敗因に関するこの見方は、それなりに納得できるものだ。しかしそうなると腑に落ちないのは、なぜそのような無謀な戦争に乗り出したかである。豪族軍の寄せ集めでは唐軍に太刀打ちできないことくらい、事前にわかっていたはずと思われるからだ。
 
 日本史の教科書では、中大兄皇子は古くから交流のある百済を復興して朝鮮半島における倭国の勢力を挽回しようと考え、派兵を決断したと書かれている。だが、本当にそうだろうか。

 歴史学者の倉本一宏氏は、中大兄皇子が派兵に踏み切った時期は百済の遺臣たちが唐の進駐軍に対し各地で勝利を収めており、今から見れば無謀に思えても、当時の情勢としては勝つ可能性もあったと述べる(『戦争の日本古代史』)。そのうえで、派兵に別の目的があった可能性を指摘する。

 その目的とは、戦争に負けても構わないから、それを国内政治に利用することである。

 中大兄は645年の乙巳の変で蘇我氏本家を滅ぼし、大化改新と呼ばれる一連の政治改革で、天皇を中心とする中央集権国家の建設に着手している。戦争に負ければ、唐や新羅が倭国に攻めてくるとの危機感を煽り、国防を固めるため国内の権力を天皇に集中せよと主張しやすくなる。

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