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ベストセラーの百田尚樹『日本国紀』、天皇の万世一系を否定しつつ称揚するという矛盾

文=八幡和郎/評論家、歴史作家
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 私は「万世一系」という表現を使うかどうかは別として、のちに神武天皇と呼ばれる、日向からやってきた武人が建てた小国を、その数世代あとの子孫である崇神天皇が大和国を統一し、さらに吉備や出雲を服属させ、その玄孫である仲哀天皇のときに北九州を服属させて成立した統一国家の王者が、現皇室まで男子男系で継続しているということは、特に不自然なものではないと主張してきた。

 記紀の内容は、古代の王者たちの長すぎる寿命を別にすれば、系図も事跡もさほど不自然なところはなく信頼性は高いということが、中国や韓国の史書や好太王碑などからも明らかであるし、考古学的知見からも、特に矛盾はないと考えるからである。

 継体天皇は応神天皇の五世の孫とされている。つまり、曾孫の孫だ。それならもっと近い候補がいたはずと言うので、越前にあって出身地の近江や妃の出身氏族である尾張氏などを糾合して大和の王国を倒して政権をとったと、地方連合政権的なイメージまで語られる。

 もしそうであれば、継体天皇は『日本書紀』で華々しく英雄として描かれているはずだが、およそ冴えない天皇としか描かれておらず、王朝創始者のはずない。それに継体天皇の父の従姉妹が允恭天皇(440年頃即位)の皇后、雄略天皇の母なのだから、かなりメジャーな皇族だった。

 応神天皇についても、継体天皇との血縁を強く推測できる。継体天皇が即位した際、実は先に声がかかったのが、仲哀天皇の子孫で丹波にあった倭彦王だ。つまり、応神天皇の子孫ではなかったのである。応神天皇と仲哀天皇に血縁がなければ、倭彦王が第一候補にはなり得なかったはずだ。

 それに、『日本書紀』や『古事記』の基になった歴史の整理作業が行われたのは、推古天皇の時だが、推古天皇は継体天皇の孫なので記憶が新しい現代史の領域であって、『日本国紀』に記されているように人々が継体天皇の即位経緯を忘れていたなど、あり得ないのだ。

百済や任那の扱いで混乱した記述

 古代における朝鮮半島とのかかわりについても、韓国が任那の存在を否定していることや日本の教科書がそれにへつらっていることは批判しながら、日本人として主張すべきことが曖昧になってしまっている。

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