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片山修「ずだぶくろ経営論」

マツダ、デザイン革命の10年間の全真相…当事者たちの告白

文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

 経営が悪化したマツダは、株式の24.5%をフォードに持ってもらう資本提携を図り、生き残りを図った。さらに90年代に入ると、バブル崩壊や販売多チャンネル化の失敗で、マツダは3期連続の大幅赤字を計上した。96年、フォードはマツダへの出資比率を33.4%に引き上げ、傘下に収め、経営権を握った。
 
 社長にはフォード出身のヘンリー・ウォレスが就いた。以来、97年にジェームス・ミラー、99年にマーク・フィールズ、2002年にルイス・ブースと、フォード出身社長の時代が続いた。

「フォードから送られてきたデザインのディレクターたちは、もちろん悪い人たちではなかった。でも、視点が違いましたね」と前田は語る。

 最初にデザイン部門のトップを務めたのは、フォードから送られたモーリー・キャラム(Moray Callum)だ。続いて、ローレンス・ヴァン・デン・アッカーがデザイン部門のトップに就いた。当時、フォードファミリーにはランドローバー、ジャガー、ボルボなどが名を連ねていた。フォードファミリーの一員となったマツダに与えられたのは、ノンプレミアムのスポーティブランドという役割だった。

「フォードの人たちは、マツダブランドをフォードグループの中での適切なポジションに置いておきたかったのだと思います。つまり、マツダはフォードグループの中でノンプレミアムブランドのポジションを担わなければいけないという不文律がありました。私は、ずっとそのことに対する悔しさがあり、いつかはという想いを持っていました」

 とはいえ、フォードから与えられたプレッシャーは、マツダにとって飛躍への踏み台になったというか、実際、マツダはフォードを飛躍のためのステップにした。その意味で、フォードの傘下に入ったのは無意味ではなかった。

「今にして思えば、それが相当なバネになった。その反発心こそが、イネブラー(成功要因)になっていくわけですから、感謝しないといけないかもしれませんね」

 流れが変わったのは、リーマン・ショックがキッカケだ。08年9月のリーマン・ショックの影響を受け、肝心の親会社のフォード・モーターが経営不振に陥った。資金調達のために、マツダの出資比率を引き下げ始めた。ヘンな話、これがマツダに幸いした。独り立ちを迫られることになる。

片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

愛知県名古屋市生まれ。2001年~2011年までの10年間、学習院女子大学客員教授を務める。企業経営論の日本の第一人者。主要月刊誌『中央公論』『文藝春秋』『Voice』『潮』などのほか、『週刊エコノミスト』『SAPIO』『THE21』など多数の雑誌に論文を執筆。経済、経営、政治など幅広いテーマを手掛ける。『ソニーの法則』(小学館文庫)20万部、『トヨタの方式』(同)は8万部のベストセラー。著書は60冊を超える。中国語、韓国語への翻訳書多数。

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