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江川紹子の「事件ウオッチ」第122回

【官邸vs東京新聞・望月記者】不毛なバトルの陰で危惧される「報道の自由」の後退

文=江川紹子/ジャーナリスト
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 (3)については、批判されてもそのスタイルは固守しているところを見ると、望月記者自身が、主張をぶつけるのが権力者への質問のあるべき姿と考えているのかもしれない。今年に入っても、自分の意見を述べて政府の見解を問う形の質問は続けている。

 たとえば、1月18日午後の記者会見で、望月記者は辺野古の基地建設をめぐる沖縄の県民投票を取り上げた。自民党の宮崎政久議員が一部自治体に不参加の手法を指南したと報じられた問題について、糾弾口調でこう尋ねた。

「宮崎議員の行動は、県民投票の権利を踏みにじる暴挙ですけれども、今回のこの暴挙は、民意に反し、辺野古基地建設を強行に進めている長官をはじめ、政府、官邸の直接的間接的指示はなかったのか、お答え下さい」

 この質問についても、官邸側から東京新聞に、「主観に基づく、客観性・中立性を欠く個人的見解。円滑な会見の実施を著しく阻害する」という苦情の申し入れがあったという。

 時に挑発的な物言いで反応を見る、相手と異なる意見をぶつけて反論を聞く、というのは、取材の手法のひとつだ。それに、ここまでしつこく反応して苦情を申し入れる官邸広報室の対応は異様だ。もっとも彼女の場合、こうした挑発的質問は「時に」ではなく、いかにも頻繁。それを、「決め打ち」と言いたくなる官房長官の気持ちもわからないではなく、このような質問スタイルに拘泥する記者の意図も理解しがたい。

 普通の取材者であれば、できるだけ相手に話をさせるような質問を工夫するだろう。それを、相手へのすりよりとか妥協などと見る人もいるようだが、話を聞いてナンボというのが記者稼業。情報をもらうために、批判すべき時に批判ができなくなったり、お追従記事ばかり書くようになったら問題だが、記者会見で答えを引き出しやすいように質問を工夫するのは、そういう批判には当たらない。

 たとえば、先の県民投票についての宮崎議員の行動について、同じ質問をするにしても、多くの記者は、こう聞くのではないか。

「宮崎議員に対し、長官をはじめ政府、官邸の直接的間接的指示や示唆、あるいは事後に報告を受ける等の関わりはなかったのか」

「権利を踏みにじる暴挙」「民意に反し」「強行に」などといった非難を含んだ表現を使わなくても、質問はできる。そのほうが答えを引き出せるなら、多くの記者はそういう方法を選ぶ。そして「暴挙」や「民意に反し」た政府の対応を批判したければ、識者の意見や沖縄の人々の声を取材したり、社説や解説の担当者にゆだねたりする。

 望月記者の応援団のなかには、官房長官に批判の言葉をぶつけて糾弾し、とっちめるのを期待している向きもあるようだが、記者会見は本来、そういう場ではない。基本的には事実や見解を引き出すための機会だ。

 ところが、望月記者は官房長官会見で何かを引き出すことができなくなっている。記者会見の場を好悪の感情で対応する菅官房長官にもがっかりだが、望月記者も自分がなんのために記者会見に出席しているのか、自分の役割はなんなのか、よく考えたほうがいいのではないか。

記者は「国民の代表」なのか

 もっとも、それは彼女や東京新聞の課題で、私のような外野がとやかく言っても仕方がない。所詮は、一記者の取材技量の問題だ。

 本来はそういうレベルの話題なのに、国会で野党議員が取り上げ、「取材の自由への干渉」と批判するような大問題になってしまったのは、官邸報道室が質問の妨害やら、同社や記者クラブに対する度重なる申し入れやら、報道の自由に不安を感じさせる悪手を次々にくり返し、問題をクローズアップさせたためだ。

 会見での望月記者に対する官房長官のそっけない対応や報道室長による質問妨害は、映像がSNSなどで拡散されている。その様子を見て、一女性記者に対する官邸総掛かりの「いじめ」と受け止めている人は少なくない。

 政権側にとっても、これまでの望月いびりの官邸報道室の戦略は、菅官房長官のイメージダウンをもたらし、人々の報道の自由に対する危機感を煽るなどの弊害ばかりで、何ひとつ得るものはなかったのではないか。政府は、広報の責任者を入れ替え、対応を根本的に改めるべきだと思う。

 一方の東京新聞も、官邸の苦情に対し、「記者は国民の代表」と言い返すなどの悪手をいくつか打っている。

 2月20日付「検証と見解」によれば、昨年6月、森友問題での財務省と近畿財務局との協議に関して、望月記者が「メモがあるかどうかの調査をしていただきたい」と求めたところ、長谷川栄一・内閣広報官から文書でこんな問いがあったという。

「記者会見は官房長官に要請できる場と考えるか」

 愚問としか言いようがない。取材の一貫として、相手方に資料の提供を要望することはありうるし、その前提で、記者会見の場で資料の存在確認や調査を求めることはあるに決まっているではないか。東京新聞は、この時点でこれを報じ、報道についての官邸の無理解を世に知らせるべきだった。

 ところが東京新聞は、その選択をせず、長谷川氏の問いには、こう答えたという。

「記者は国民の代表として質問に臨んでいる。メモの存否は多くの国民の関心事であり、特に問題ないと考える」

 果たして、記者は「国民の代表」なのだろうか。これに対して、官邸側は「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員」と反論した。一方、メディア法の専門家のなかには「広い意味で、知る権利に応える国民の代表である」と述べている人もいる。

 私は、記者が「国民の代表」という表現には違和感を覚える。私自身は、新聞記者時代も含め、自分は「国民の代表」ではないと思う。

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