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江川紹子の「事件ウオッチ」第122回

【官邸vs東京新聞・望月記者】不毛なバトルの陰で危惧される「報道の自由」の後退

文=江川紹子/ジャーナリスト
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 「広辞苑」第7版によれば、「代表」には次の3つの意味がある。

・法人・団体または一個人に代わってその意思を表示すること。また、その人。「親族を――して挨拶する」
・全体を示しうるような、その中の1つのものまたは一部分。「日本文学を――する作品」
・その集団の中で、ある能力や技術の高さによって選ばれた人・団体。「日本――チーム」

 1人のジャーナリストが国民に成り代わって意思表示をしたり、国民全体のモノの見方を表明することなどできない。国民から選抜された存在でもない。なにより、取材活動というのは、国民を代表してやるものではなく、基本的には記者本人や所属する媒体の「知りたい」「伝えたい」という関心に突き動かされて行うものだと思う。

 ただし、自由な取材や報道を支えているのは、国民の「知る権利」にほかならない。取材先で取材しやすいように便宜が図られることがあるのも、「知る権利」を持つ国民の代わりに、現場に行き、見たり聞いたり写真を撮ったりして、それを伝えるからだ。また、困難な状況にある人たちの代わりに、その声や姿を預かって多くの人々に届ける仕事もある。こうした取材の対象も情報の受け手も、日本の国民とは限らない。

 そう考えると、ジャーナリストの活動は、「国民の代表」ではなく、「人々の代理」として行っていると言うのがふさわしいのではないか。新聞記者が記者会見に出て質問するのも、人々の代わりにさまざまな事実や見解を引き出し、それを伝えることで、人々が考える材料を提供する、そういう行為だと思う。

 もっとも、「人々」と言っても、世の中にはいろんな考えや好みの人がいる。なので、その代わりに取材を行うジャーナリストにもいろんな考えや好みの人がいることが望ましく、メディアは多様であった方がよい。いろんな人たちの代わりに、さまざまな記者が時間の許す限りそれぞれの観点から質問をする。答えるほうも、やはり時間の許す限り、真摯に対応する。それができてこその報道の自由ではないか。

 ところが、「官邸vs.望月記者・東京新聞」という不毛なバトルが繰り広げられている間に、さして長くもない記者の質問にも、官邸報道室が平然と催促の言葉を差し挟んで質問しにくくするようになっている。これは、報道の自由を後退させる動きと言えよう。

 東京新聞が「検証と見解」を掲載した2月20日の記者会見で、この問題を取り上げて質問した朝日新聞の女性記者も、同じような目に遭っている。最初にこの問題を質問した男性記者は、そういう対応をされていない。女性記者に対して、より妨害的な行為がなされやすいのではないか、という疑念も芽生える。

 そもそも、内閣記者会主催の記者会見であれば、司会を記者クラブの幹事社がやらず、官邸報道室長が司会を行っているというのがヘンではないか。そればかりか、同室長の質問妨害を許しておくとは、どういうことだろう。

 記者クラブは、1890(明治23)年に始まった国会(帝国議会)で、記者たちが傍聴取材を要求したのが起源だ。取材機会の充実を求めていくのがあるべき姿で、それを制限する当局の動きには、敏感に反応し、押し返さなければならない。言うべき時に言わなければ、結果として報道の自由を抑制する方向に協力するのと一緒である。ゆめゆめそんなことにならないよう、ここだけは注文をつけておきたい。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

●江川紹子(えがわ・しょうこ)
東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か – 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。
江川紹子ジャーナル www.egawashoko.com、twitter:amneris84、Facebook:shokoeg

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