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三浦展「繁華街の昔を歩く」

東京・立川、米軍基地と大量の洋娼によって発展した街の歴史

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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 洋娼たちは、ショートタイム・ハウスに住む者、専属のホテルに住む者、「バタフライ」と呼ばれるフリーの女性、特定の一人の米兵を相手にする「オンリー」などがいて、バタフライだけで約3000人、その他を合計する約5000人の洋娼がいたらしい。

 洋娼たちの着る洋服の需要で洋服屋は儲かった。それから家具屋も儲かった。洋娼が出入りする店から毎日のようにダブルベッドやカーテンの注文が入ったからである。西立川駅のほうにはクルマに乗ったまま映画を見る野外劇場もできた。当時は珍しかったピザを出す店も多かった。

 キャバレーの代表は中野喜介が曙町につくったキャバレー「立川パラダイス」だ。中野は「夜の市長」という異名を持つ地元の有力者だった。中野は旧陸軍将校宿舎を借りて、全国から370人の女性を集めた。兵隊ではなく将校が行く店でもあった。ダンサーだけで100名ほどいたが、ダンサーのなかにも洋娼になっていく者も多かった。

 他のキャバレーも女性が200人くらいいる大規模なものが多かった。富士見町にモナコ、高松町にVFW、シビリアンクラブ、その他、ゴールデンドラゴン、セントラル、グランド立川、サンフラワーなど。競輪場通りには「娘ビヤホール」という大きなビヤホールもあった。

 ジャズバンドが入るクラブもいくつかあった。ジョージ川口、小野満、松本英彦、江利チエミ、フランキー堺ら、戦後日本を代表する多くのミュージシャンが、それらのクラブで演奏した。熱海の石亭が立川につくったホテルにも高級クラブがあり、そこにもバンドが入ったが、客は高級将校だったという。

 クラブの名残がないかと街を歩いてみたら、一軒だけ、ロックンロールクラブ21という店だったところが残っていた。隣の店は英語教室になっているから、そこももしかすると基地時代から続いているのかもしれない。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

東京・立川、米軍基地と大量の洋娼によって発展した街の歴史の画像4図 立川駅北口のクラブやキャバレーの分布(出所 鈴木武編『立川の風景 昭和色アルバム その5』けやき出版、2010)
東京・立川、米軍基地と大量の洋娼によって発展した街の歴史の画像5
東京・立川、米軍基地と大量の洋娼によって発展した街の歴史の画像6ロックンロール21(写真上)という店だったところが残っていた。

参考文献
中野隆右『立川~昭和二十年から三十年代』

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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