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江川紹子の「事件ウオッチ」第124回

【ピエール瀧逮捕余波】誰のための、何のための自粛かーー炎上を恐れて失われるもの

文=江川紹子/ジャーナリスト
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 1990年、勝新太郎さんがコカインなどを下着に隠し持っていた容疑でハワイの税関当局に逮捕される事件があった時には、彼が出演している2本の公開予定の映画をめぐって、判断が分かれた。東宝東和は日本・香港合作映画『孔雀王・アシュラ伝説』を、予定通り公開した。それに対して、特に批判はなかったという。一方、『浪人街』の公開を控えた松竹は、公開を延期したまま、ずるずるとその後の判断を示さずにいた。そうした態度を、日本映画監督協会理事長(当時)の大島渚さんは「要するに配給会社のことなかれ主義ですよ」と一喝した。

「憲法の保障する表現の自由には作品の公表ということも含まれるわけで、この点からも大きな問題」(同年4月26日付朝日新聞)

 こうした「ことなかれ主義」は、ネット社会となり、さらには長時間の激しい抗議電話やスポンサー等への抗議行動、不買運動などを含めた“モノ言う視聴者”が増えた近年、さらに増しているように思える。その結果、少数の声の大きいクレーマーを意識するあまりに、多くの人たちの「見る自由」を犠牲にしているのではないか。

 映画や放送だけではない。

 今回は「ソニー・ミュージックレーベルズ」も、瀧容疑者が主要メンバーの「電気グルーヴ」のCDやDVDの出荷停止やネットでの配信停止を発表。作品は店頭から回収された。電気グルーヴの音楽が好きな人たちの「聴く自由」は奪われた。この犠牲によって、いったい何が守られたのだろうか。

 20世紀にも、薬物の使用や所持でお縄になったミュージシャンはいたが、このような自粛はなかった。1980年、元ビートルズのポール・マッカートニーさんが、大麻を所持したまま日本に入国しようとして発覚し、入管で拘束され国外退去となったが、ビートルズのアルバムが店頭から消えることはなかった。若者のカリスマといわれた歌手の尾崎豊さんが覚せい剤使用で捕まったのは1987年12月。起訴後も勾留が続き、翌年1月に予定されていた日本武道館での公演は中止となったが、この時も、逮捕前に発売されたアルバムが回収され、楽曲がお蔵入りになるようなことはなかったように思う。そして、刑事裁判で執行猶予付きの判決が確定すると、数カ月後にはテレビに生出演している。

 今回のような徹底して、作品を封印するようになったのは、1999年に槇原敬之さんの覚せい剤事件かららしい。この時は、逮捕から5日後にソニー・ミュージックエンタテインメントがCDの出荷停止・回収を発表した。

 2014年にASKAさんの覚せい剤事件の時には、所属のユニバーサルミュージックが、彼に関連するすべての契約を解除し、CDなどすべてを回収、出荷停止、配信停止すると発表した。

 こうして、薬物で逮捕→即作品封印という対応が定番になってしまった。

 槇原さんの時もASKAさんの時も、回収される前に買おうという駆け込み需要で、売り上げランキングの上位に食い込む現象もあった。「作品には罪がない」という声はあったが、メディアがそれを大きくとりあげることはなかった。

 それに対し、今回はネット上で、ソニー・ミュージックレーベルズに対し、「過剰な反応とも言えるこの措置に抗議し、すみやかな撤回を求めます。これまでのように、配信とパッケージを通して電気グルーヴの作品を自由に聞ける・買える状態に戻すことを求めます」とする署名活動が行われ、すでに6万筆を超える支持が寄せられている。

「なんのための自粛ですか?」「聴きたくないという人は、ただ聴かなければいいんだけなんだから。音楽に罪はない」という坂本龍一さんのツイートが報じられるなど、「聞く自由」を求める人の声は大きくなっている。

 過去の作品を葬ることによって、誰も幸せにならない。それどころか、制作者や共演者、聴き手や観客みんなが残念な思いをする。文化的な損失でもある。

的外れな“ドーピング”批判

 瀧容疑者が出ている映画を「ドーピング作品」と呼んだ芸能人がいて驚かされた。この人は、文化芸術というものがまるでわかっていないのだろう。

 コナン・ドイルが生み出した名探偵シャーロック・ホームズは、薬物常用者である。第2作『四つの署名』は、ホームズが7%のコカイン溶液を注射するところから物語が始まる。フランスのベルリオーズの名曲『幻想交響曲』は、失恋の痛手に苦しむ若い音楽家がアヘンを服用し、幻覚を体験する様を描いたものだ。作曲家自身の若い頃の体験を音楽にした。「無頼派」作家の坂口安吾はヒロポン(覚せい剤)常習者だった。随筆で、覚せい剤は注射だとすぐ中毒になるが、錠剤の飲用なら害はないなどとうそぶいている(それが誤りであることは言うまでもないが)。

 そのほか、過去の作家や作曲家を見れば、不倫やDVの常習者、アルコールや薬の中毒者など、道徳の規準で考えれば、とんでもない人たちがいくらでもいる。こうした人たちの作品を、すべて道徳の規準で判断し、切り捨てていったら、その先にあるのは文化芸術の退廃だろう。

 幸いなことに、今のところはそうなっていない。ホームズのシリーズは現在も普通に読める。『幻想』は、日本でも頻繁に演奏される(つい先日も、東京で読売交響楽団が素晴らしい演奏を聴かせたばかりだ)。安吾の『堕落論』は読み継がれ、『桜の森の満開の下』は野田秀樹さんが芝居や歌舞伎に仕立てて、その幻想的な世界を現代に蘇らせた。

 もちろん、厳しい制裁に理由がないわけではない。

 今回の瀧容疑者に対する対応は、芸能人に対しては薬物事犯には厳しい社会的制裁があると強く印象づけたと思う。これから薬物に手を出さないように、という警告にはなっただろう。

 ただ、すでに薬物依存となっている人たちに対する影響はほとんどないのではないか。厳しい制裁があるとわかっていても、やめられないのが依存症だからだ。一般人にとっては、ほとんど他人事だろう。

 それに、作品の回収や上演見送りなどによって、経済的にも多くの損害が発生する。瀧容疑者に求められる損害賠償は、10億円とも30億円とも、あるいは100億円に達するとも報じられている。とても個人で背負いきれるものではないし、こうした過剰な制裁は、本人の更生にプラスになるとは思えない。

 そもそも、薬物依存は厳罰や排除によって治るものではない。やめたくても意思の力だけではやめられないのが依存症。適切な治療や自助グループなどでのケアなど、社会内での息の長い取り組みで回復を支えていくことが必要というのは、もはや多くの人が理解しているのではないか。

 薬物に対する厳しい姿勢は、こうした治療などにきちんと取り組み、依存から一定の克服をするまで、新たな番組や映画に起用することはしない、という対応でも示すことができる。テレビ局であれば、薬物の怖さや依存からの回復についての番組を制作・放送するという方法もある。

 逮捕されたら、作品をすべてお蔵入りさせるという、今のような過剰反応はもうやめにしてもらいたい。自粛するのは、公開することで新たな問題が発生する、あるいは非公開にすることで大切な何かが守られる、といった例外的な事情がある場合だけでよい。作品は、制作・提供する人や組織だけのものではない。人々がそれを「見る自由」「聞く自由」をもっと大切にして欲しいと思う。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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