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松下幸之助の孫、パナソニックを去る…創業から100年の人事抗争と“松下創業家”の思惑

文=菊地浩之
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松下幸之助の孫、パナソニックを去る…創業から100年の人事抗争と“松下創業家”の思惑の画像1パナソニックの創業者である松下幸之助(撮影は1987年4月、写真:Fujifotos/アフロ)

 パナソニックは2019年6月で松下正幸副会長が退任し、取締役から退くと発表した。同社は旧称を松下電器産業といい、「経営の神様」「販売の神様」といわれた松下幸之助が一代で創った会社で、正幸はその孫にあたる。創業以来、取締役の座を温めてきた松下家が、パナソニックの経営陣から去る日がやって来たのだ。

 松下幸之助は1894年、和歌山県の裕福な農家の3男として生まれたが、幸之助が幼少の折、父が事業と相場に失敗したため、尋常小学校を4年で中退、大阪に出て焼物屋や自転車屋の小僧として奉公し、16歳で見習い工として大阪電燈に入社した。

 幸之助は日々創意工夫を怠らず、仕事のかたわら配線器具やソケットを改良し、その製品化のために会社を辞めて独立。大阪鶴橋の二間の借家を工場にして、淡路島から義弟・井植歳男(三洋電機の創業者)を呼び寄せ、自ら考案した改良ソケットづくりに没頭した。

 1918年の創業当初は、なかなか販売が軌道に乗らなかった。かといって、零細企業なので銀行からカネを借りることもできず、むめの夫人は親戚に頭を下げて借金して生活費を工面したと伝えられる。一方で幸之助は「良いものは売れる」という信念から、さらに十分研究した上で思い切った量産体制を敷き、二股ソケット、自転車用ランプ、電気アイロン、ラジオなど高性能で低価格の製品を提供した。その一方、卸売店・小売店の系列化に力を注ぎ、「販売の松下」の基礎を固めていった。

 こうして、戦前すでに松下電器産業は電機メーカーとして、財閥系企業や日立製作所に次ぐ地位にまで成長したのである。

松下幸之助の孫、パナソニックを去る…創業から100年の人事抗争と“松下創業家”の思惑の画像2電灯ソケットは、創業当初の松下電器の大ヒット商品のひとつである(写真は「Getty Images」より)

当てが外れた、名門からの婿養子

 現代企業であれば、創業者が有能な部下に社長をバトンタッチすることも珍しくないが、戦前では世襲が一般的だった。松下幸之助には一人娘しかいなかったが、これは功成り名を遂げた幸之助が、名門家系から婿養子を迎え、松下家に箔を付ける格好のチャンスでもあった。かくして幸之助は、平田伯爵家から婿養子を迎えて社長を譲った。松下正治である。

 松下正治は、内務官僚で伯爵の平田東助(とうすけ)の孫として生まれた。祖母は元勲・山県有朋の姪、母は七日市藩主・前田子爵家。三井財閥惣領家にも姻戚関係がある名門家系だった。結婚式では、各界の名門人脈が正治の親戚として列席し、さしもの幸之助も気後れするほどだったという。

 正治は東京大学法学部卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行していたが、幸之助の一人娘との結婚を機に松下電器産業に転じ、28歳で監査役に就任。その3年後に取締役に就任、2年後に副社長に昇進した。そして、1961年に正治が松下電器産業の2代目社長となった。

 幸之助と正治は家柄、学歴、経験の違いから価値観が合わず、幸之助は正治の経営手腕にも疑問符を付けていた。しかし、創業当初に苦労をかけた妻や娘が正治の社長就任を強く望んだので、これに抗しきれなかったようだ。ところが、1964年に電機産業が不況の波にさらわれ、松下自慢の販売網が弱体化しているのを目の当たりにした幸之助は、正治に経営を任せておけず、営業本部長代行として現場に復帰してしまう。それは同時に、後継者・正治に「社長失格」の烙印を押したに等しかった。

松下幸之助の孫、パナソニックを去る…創業から100年の人事抗争と“松下創業家”の思惑の画像3現在のパナソニック公式サイトより「Getty Images」より

11人抜きの山下跳び

 1977年、松下正治は社長を退いて会長となり、後継に末席取締役の山下俊彦を抜擢した。山下は工業学校出身で、下請け会社に転職したり、関連会社に出向を命じられたりした後、松下電器産業に復職して冷機事業部長に就任。1974年にようやく取締役に抜擢されたばかりだった。11人抜きでの社長昇進は、当時「山下跳び」と呼ばれ、世間をあっと驚かせた。

 山下の社長就任を発案したのは、正治だという。そこには正治の深謀遠慮があった。

 通常、社長が交代すると、その人物より上の役員は退任を促される。末席の取締役を抜擢すれば、それより上席の古参役員を一掃できる。山下は「脱 創業家」路線を断行し、幸之助の腹心の役員たちを次々と退任に追い込んだ。しかし、その急進的なやり方は幸之助との軋轢を生んだ。気がつくと、幸之助が信頼を置いていた役員がいなくなっていた。幸之助が公的な会合で激しい口調で山下を非難するまでになった。

谷井社長、正治会長との対立に敗れる

 地位に恋々としない山下は、1986年に谷井昭雄に社長職を譲り、経営の一線から退いてしまう(松下正治は取締役会長に留任)。『ドキュメント パナソニック人事抗争史』(岩瀬達哉/講談社)によれば、「幸之助さんは、山下さんに、ポケットマネーで50億円用意するから、これを正治さんに渡し、引退させたうえ、以後、経営にはいっさい口出ししないよう約束させてくれ」と申し渡していたらしい。

 ところが山下は、正治に引退を迫らなかった。谷井は山下路線の継承者であり、山下の意を汲んで正治に役員退任を勧めたが、正治はこれを拒み、両者の間に亀裂が走った。金融子会社ナショナル・リースの巨額不正融資事件が起こると、正治は1993年に谷井を引責辞任に追い込み、「親・創業家」派といわれる森下洋一を社長に抜擢した。

孫・正幸、棚上げされる

 1986年、山下の社長退任と同時に、幸之助の孫・松下正幸が40歳の若さで取締役に昇格していた。山下は「時期尚早」と唱えて最後まで反対したという。しかし、松下家の意向を受けた正治の強い推薦によって、正幸の取締役就任が実現したのである。

 松下正幸は松下正治の長男として生まれ、慶應義塾大学経済学部を卒業し、松下電器産業に入社。アメリカ松下電器、米スリーエム社、松下寿電子工業への出向を経て、33歳で松下物流倉庫社長に就任。松下電器産業の洗濯機事業部長を経て、取締役に就任した。

 松下電器産業に戻ってからは花形である宣伝部門や、業績のいい洗濯機事業部などを任され、リスクの大きい新規事業立ち上げや赤字部門の再建等は一切担当せず、「温室育ち」と揶揄された。

 では、幸之助は孫・正幸をどう見ていたのか。血を引いた男子の社長就任を望んでいたとする説と、「わしの孫というだけで松下の役員になれるわけではない」と語っていたという説の2つがある。

 いずれにせよ、このタイミングで正幸が役員に就任したのは、死期が近づいた幸之助を安堵させる意図があったと思われる。当時、幸之助は体調を崩し、実際、その3年後の1989年に息を引き取った。

 正幸は1990年に常務、1992年に専務、1996年には50歳で副社長に就任し、いよいよ社長就任が視野に入ってきた。しかし、この副社長人事に、翌年、元社長の山下俊彦は、「創業家への大政奉還につながる」と、公然と批判し始める。山下発言はマスコミでも大きく取り上げられ、社内外でも大きな反響を呼んだ。あまりの反響の大きさに、山下も口を閉ざしてしまったほどだったという。

 しかし、その決着は思わぬところで幕引きとなった。松下興産の経営失敗により、松下家の発言力が低下したのである。

想定外だった創業家の敗北

 松下興産は松下家の資産管理会社で、幸之助亡き後、松下電器産業の大株主として唯一残っていた松下家の牙城である。幸之助が1983年まで社長を務め、それ以降は、正治の娘婿である関根恒雄が社長に就任していた。

 時あたかもバブル経済が到来し、建設、不動産業界でデベロッパー商法が盛んになると、関根は松下興産をデベロッパー企業に転身させた。ところが、和歌山のリゾート施設、マリーナシティなどへの過剰な投資により、2000年に7700億円もの有利子負債を抱えてしまう。ここに至って松下電器産業は松下興産の再建に乗り出し、2001年に関根を更迭。2005年に松下興産は清算された。

 2000年、松下興産の件の責任を取って、正治は会長から名誉会長に退き、副社長の正幸は副会長に棚上げされた。副会長は通常「アガリ」の役職で、副会長から社長に就任することはない。ここに、正幸の社長就任の芽はついえてしまったのだ。

 そして2008年、松下電器産業は社名をパナソニックに改称。創業者色を払拭した。意外にも幸之助は、社名に「松下」の名前が付いていることを誇りに思っていたという。さぞや泉下で悔やんでいるだろう。

 これに対し、本田宗一郎は本田技研工業(通称・HONDA)の社名に自らの姓を付けたことを後悔していたが、同社が今なおこの社名を維持しているのは皮肉というほかない。(敬称略)
(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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