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松下幸之助の孫、パナソニックを去る…創業から100年の人事抗争と“松下創業家”の思惑

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現在のパナソニック公式サイトより「Getty Images」より

11人抜きの山下跳び

 1977年、松下正治は社長を退いて会長となり、後継に末席取締役の山下俊彦を抜擢した。山下は工業学校出身で、下請け会社に転職したり、関連会社に出向を命じられたりした後、松下電器産業に復職して冷機事業部長に就任。1974年にようやく取締役に抜擢されたばかりだった。11人抜きでの社長昇進は、当時「山下跳び」と呼ばれ、世間をあっと驚かせた。

 山下の社長就任を発案したのは、正治だという。そこには正治の深謀遠慮があった。

 通常、社長が交代すると、その人物より上の役員は退任を促される。末席の取締役を抜擢すれば、それより上席の古参役員を一掃できる。山下は「脱 創業家」路線を断行し、幸之助の腹心の役員たちを次々と退任に追い込んだ。しかし、その急進的なやり方は幸之助との軋轢を生んだ。気がつくと、幸之助が信頼を置いていた役員がいなくなっていた。幸之助が公的な会合で激しい口調で山下を非難するまでになった。

谷井社長、正治会長との対立に敗れる

 地位に恋々としない山下は、1986年に谷井昭雄に社長職を譲り、経営の一線から退いてしまう(松下正治は取締役会長に留任)。『ドキュメント パナソニック人事抗争史』(岩瀬達哉/講談社)によれば、「幸之助さんは、山下さんに、ポケットマネーで50億円用意するから、これを正治さんに渡し、引退させたうえ、以後、経営にはいっさい口出ししないよう約束させてくれ」と申し渡していたらしい。

 ところが山下は、正治に引退を迫らなかった。谷井は山下路線の継承者であり、山下の意を汲んで正治に役員退任を勧めたが、正治はこれを拒み、両者の間に亀裂が走った。金融子会社ナショナル・リースの巨額不正融資事件が起こると、正治は1993年に谷井を引責辞任に追い込み、「親・創業家」派といわれる森下洋一を社長に抜擢した。

孫・正幸、棚上げされる

 1986年、山下の社長退任と同時に、幸之助の孫・松下正幸が40歳の若さで取締役に昇格していた。山下は「時期尚早」と唱えて最後まで反対したという。しかし、松下家の意向を受けた正治の強い推薦によって、正幸の取締役就任が実現したのである。

 松下正幸は松下正治の長男として生まれ、慶應義塾大学経済学部を卒業し、松下電器産業に入社。アメリカ松下電器、米スリーエム社、松下寿電子工業への出向を経て、33歳で松下物流倉庫社長に就任。松下電器産業の洗濯機事業部長を経て、取締役に就任した。

 松下電器産業に戻ってからは花形である宣伝部門や、業績のいい洗濯機事業部などを任され、リスクの大きい新規事業立ち上げや赤字部門の再建等は一切担当せず、「温室育ち」と揶揄された。

 では、幸之助は孫・正幸をどう見ていたのか。血を引いた男子の社長就任を望んでいたとする説と、「わしの孫というだけで松下の役員になれるわけではない」と語っていたという説の2つがある。

 いずれにせよ、このタイミングで正幸が役員に就任したのは、死期が近づいた幸之助を安堵させる意図があったと思われる。当時、幸之助は体調を崩し、実際、その3年後の1989年に息を引き取った。

 正幸は1990年に常務、1992年に専務、1996年には50歳で副社長に就任し、いよいよ社長就任が視野に入ってきた。しかし、この副社長人事に、翌年、元社長の山下俊彦は、「創業家への大政奉還につながる」と、公然と批判し始める。山下発言はマスコミでも大きく取り上げられ、社内外でも大きな反響を呼んだ。あまりの反響の大きさに、山下も口を閉ざしてしまったほどだったという。

 しかし、その決着は思わぬところで幕引きとなった。松下興産の経営失敗により、松下家の発言力が低下したのである。

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