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三浦展「繁華街の昔を歩く」

東京・墨田区「玉の井」を歩くのは面白い…街がどことなく“色っぽい”理由

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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 玉の井といえば永井荷風で、散歩好きなら必ず訪れる街だ。

 大正時代に東京を近代都市に変貌させるための都市計画が進められると、浅草の浅草寺などの裏のほうにあった銘酒屋(めいしや)と呼ばれる私娼窟を撤去する方針が出された。銘酒屋は名前は酒を飲ませる店だが、それは名目で、店の2階で売春をしたのだ。1915年の警視庁の調べでは、東京市内に92カ所の私娼窟があり、2000人の娼婦がいた。そのうち半分が浅草にいたという。

 近代都市のほぼ中心部にそのような売春の街があってはならない、という考えから、その銘酒屋が排斥された。そこで次第に銘酒屋は隅田川を渡って向島のさらに東の玉の井に移転した(当時の向島区、現在の墨田区)。折しも1923年、関東大震災があり、移転が加速。玉の井が一大私娼窟となった。1926年の寺島警察署の調べでは、銘酒屋350件、娼婦数653人。33年には娼婦数は2000人に増えていたという。

 それまで特に何もなかった玉の井に、いったい誰が私娼窟をつくったのか。江戸時代には裕福な町人の別荘や妾宅があったというが、あとは農村である。そこに、闇のデベロッパーのような人がいて、浅草に代わる場所を探し、もしかして向島の花街の顔役にも相談し、それで玉の井の地主と話がついて、地主が売春用に店をつくり、そこに売春業者が集団移転し(一部は亀戸にも移転した)、カフェーと名を変えて経営したのだろうかと想像する。が、なにしろ闇の世界の話なので、詳しく事情を書いた資料を読んだことがない(『玉の井』に関するもっとも詳細で圧倒的な資料は、日比福田恆明の『玉の井 色街と社会の暮らし』<自由國民社/2010年>である)。

 戦争が激しくなる1937年になると、玉の井銘酒屋組合長が陸軍省から呼び出され、軍の慰安のために娼婦を集めて中国に行ってもらいたいと要請された。移動と住居と食事の手当は軍がやるが、経営は業者の皆さんが自主的にやるというかたちをとりたいと言われた。組合では53人の娼婦を集め、東京から下関まで汽車で、下関から船で長崎へ行き、長崎から上海に送り出したという。

東京・墨田区「玉の井」を歩くのは面白い…街がどことなく“色っぽい”理由の画像1戦後の玉の井の名残

これが玉の井の路地か!

 たまたま昔一緒に仕事をした男性の実家が玉の井のいろは通りにあったという話を最近になって聞き、その男性のお母さんにも同行していただき、1月に玉の井を歩いた。今でも少しかつての名残がある玉の井は、いろは通りの西側だが、これは戦後のもの。戦前は東側にあった。それが戦災でほぼ焼けてしまい、戦後いろは通りの西側や、鳩の街、亀戸、立石など別の街に移転した。

 私が玉の井を歩くのは4度目だが、しっかり歩いたのは3度目。最初は2011年で、そのときは戦前の玉の井がここだったと勘違いしていた。だが、玉の井を舞台に小説を書いた吉行淳之介ですら、最初は勘違いしたというから、私ごときが間違うのは仕方ない。

 お母さんは中学生だった1958年くらいに、葛飾区から玉の井へ引っ越してきたという。58年だから売春防止法は施行され、赤線は廃止されたが、その後もそういう仕事をする女性はいただろう。そうでないと食っていけない。もちろん飲食業などに転業する人もいたはずだ。今はかなり住宅地になっているが、昔はカウンターだけの小さい店がぎっしり並んでいたそうだ。シュミーズ姿の女性が通りを歩いていましたよ、とお母さんは言う。

 久々に歩く玉の井は、かつての名残をとどめる店が減り、スナックなどが並ぶ通りも閉店した店が増えていた。それでもあきらかに昔の外観を残す家や、水商売の街らしい、どことなく色っぽい美容室などがあり、往時を偲ばせた。

東京・墨田区「玉の井」を歩くのは面白い…街がどことなく“色っぽい”理由の画像2どことなく色街風の美容室

 永井荷風の描いた「ぬけられます」の看板で有名な戦前の玉の井のほうにも行ってみた。これは2度目の散策。カフェー街は、「おはぐろどぶ」と呼ばれるどぶ川が流れていて、大雨が降るとどぶが溢れたという。戦災で全滅したのだから、昔とは違うと思うが、それでも何カ所か、なるほどこれが玉の井の路地か! と思える路地がまだある。

東京・墨田区「玉の井」を歩くのは面白い…街がどことなく“色っぽい”理由の画像3戦前の玉の井の路地が残っているのか

戦争と赤線地帯

 玉の井は東武スカイツリー線の東向島駅近くにある。30年ほど前までは玉の井駅といった。ひとつ浅草よりの駅が曳舟で、ここから10分ほど歩くと鳩の街で、今は400mほどの商店街になっている。商店街の北の端はもう隅田川の近く。そこからすぐのところに戦前は大倉喜八郎男爵の別邸があったが、それも戦後は日本観光企業という会社が買い取り、「大倉」という料亭になる。それが米軍に接収されて米軍高官用の慰安施設「リバーサイド・パレス」になっていた。

 鳩の街は戦後すぐにできた街である。玉の井銘酒街の矢内信吾が鳩の街をつくったのだ。最初は5軒だけだったが、周辺には工場が多く、若い男性が多かったので、鳩の街は栄え、45年7月には業者数が40軒に増え、娼婦も70人に増えた。もちろん鳩の街も最初は米兵用の慰安施設でもあった。

 鳩の街は最初は「玉の井」と名乗っていたらしいが、戦争が終わったので、平和の象徴である鳩にちなんでピジョンストリートという名前を米兵がつけたという噂もある。しかし性病の蔓延で米兵が利用しなくなり、46年にはGHQが「公娼制度廃止」を日本に命じた。その後、鳩の街は赤線地帯となる。56年には業者数107軒、娼婦数が315人に増えていた。

 戦前は農村から身売りされたような女性がこういう仕事をしたのだが、戦争で男たちが大量に死んだので、戦後の鳩の街では中流階級の女性も働いたらしい。名前は忘れたが、昔見た映画でも、世田谷あたりの裕福な家庭の専業主婦だった女性が鳩の街で働くという場面があった。それは決して映画のつくり話ではなかったのだ。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

東京・墨田区「玉の井」を歩くのは面白い…街がどことなく“色っぽい”理由の画像4
東京・墨田区「玉の井」を歩くのは面白い…街がどことなく“色っぽい”理由の画像5鳩の街商店街の現在。昔懐かしいちり紙がまだ売られていて、なんだか色っぽい。

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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