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木村貴「経済で読み解く日本史」

1300年前から無駄な道路建設で国民に犠牲を強い続ける「日本の歴史」

文=木村貴/経済ジャーナリスト
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 駅路はいつ、誰によって建設されたのか。研究者の意見は2つに分かれる。

 ひとつは、白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れたことを受け、7世紀後半に天智天皇が国防のために作道を命じたという説だ。しかし、まっすぐで幅の広い道路は軍隊の移動にうってつけである半面、敵をも利することになる。

 もうひとつは、7世紀末に天武天皇が中央集権国家を建設する政策として作道を命じたという説だ。古代の日本は中国を手本に、天皇を中心とした強力な中央集権国家の建設をめざした。中央にすべての権限を集中させ、地方には中央の出先機関を置き、中央から派遣された役人が統治を行う国家形態で、律令国家と呼ばれる。

 中央集権国家にとって、中央と地方とのスムーズな往来は必要不可欠だった。中央の意思を速やかに地方に伝達するとともに、地方の出来事を中央に遅滞なく報告するためには、中央と地方とを直結する交通網が必要になる。

 前述のとおり、駅路は直線的に造られているため、場所によっては、非常に長い区間、沿線にまったく集落が存在しない場所を通過するところさえある。つまり、沿線住民の利便性などはまったく視野に入れられていない。駅路とは「中央政府が地方を支配するために設置した道路網なのである」と日本古代交通史が専門の近江俊秀氏は述べる(『道が語る日本古代史』)。

 駅路の沿線には駅家という施設が置かれた。駅路を利用する正式な使者(駅使)が宿泊したり休憩したりする施設で、駅使が乗る駅馬が飼われていた。馬の飼育など駅家にかかわるあらゆる仕事は、駅家の近くの農民(駅子)が担った。馬の飼育は餌代だけでも馬鹿にならないから、富裕で成人男子が2人以上いる家の仕事とされた。

 馬の飼育以上に駅子の負担となったのは、駅使らが駅家を利用する際の宿泊、休憩、食事の提供などの接待と、馬を引き次の駅まで随行することだった。こうした負担を強いられる駅子には、税負担の軽減などの措置がとられたものの、場所によってはその程度の措置では十分でなかった。

大部分は地中に埋もれた

 駅路の利用は本来、天皇の崩御などに伴う緊急の駅使にほぼ限られた。ところが8世紀に入ると、それが次第に拡大されていく。733(天平5)年には、中央と地方間における役人の移動は、公務にかかわるものであれば、内容を問わずにほぼすべて駅路を利用できるようになる。中央の動向が気になる地方の役人は、白鹿など珍しい動物をめでたい印であるとして献上するなど、何かと理由をつけて都に帰った。

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23:30更新
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