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木村貴「経済で読み解く日本史」

政府が独占する“通貨発行益”という特権…各国政府が仮想通貨リブラを批判する背景

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 和同開珎も同じく、発行の目的は新都建設に伴う物資の購入や労賃の支払いだった。707年頃、藤原京からのちに平城京と呼ばれる奈良への遷都が検討され始めると、再び財政収入を求めた貨幣発行プロジェクトが始動する。天候不順が続き税収が減っていたこともあり、財源の確保を急いだとみられる。前述のとおり、和同開珎は708年に発行された。平城京に遷都し、奈良時代が始まるのは2年後の710年である。

 富本銭も和同開珎も、朝廷が実際に発行益を手にするには、乗り越えなければならない壁があった。人々が朝廷の通貨を信用し、受け取ってくれることである。人々が信用せず、受け取りを拒否したり、法定価格より低い価値でしか受け取らなかったりすれば、朝廷は期待した発行益を得られない。

 ここで朝廷にとって目ざわりになったのは、政府通貨より昔から流通していた無文銀銭の存在である。人々が慣れ親しみ、商品としても価値のある銀貨を使い続ければ、政府通貨はいつまでたっても普及しないからだ。そこで朝廷は強硬手段に出る。天武天皇が683年、「今後は必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いてはならぬ」と命じた。無文銀銭に代わって富本銭の使用を命じたのである。もっとも、命令どおりに事が運んだとは考えにくい。むしろ混乱を招いた可能性もある。そのためか、銀銭禁止のわずか3日後、銀での取引を認めている。

 一方、和同開珎は銀銭と銅銭の2種類が発行され、早くも翌709年、銀銭の発行を停止する。製造コストの安い銅銭で大きな発行益を得るという目論見があった。朝廷は銅銭の使用を促すため、富本銭以上に強引な手段を繰り出す。同年、銀の地金を通貨として使うことを禁じた。また、高額取引では銀銭を、少額取引では銅銭を使えと命じた。

 当時、人々は無文銀銭のほか、米や布をお金代わりに利用していた。それを禁じ、朝廷の通貨を使うよう強制したわけである。さらに710年代には、田を貸借する際に地代を銭で支払うよう強制。加えて、平城京の市で政府通貨の受け取りを拒否することを禁じた。これを撰銭令(えりぜにれい)という。

 こうした強硬策にもかかわらず、銅銭で発行益をたっぷり稼ぐという朝廷の狙いは十分には達成できなかった。社会で銀地金と銀銭が流通し続け、銅銭の法定価格が守られず、市場ではそれ以下の価値で流通したからだ。

 それでもある程度の発行益は得られるため、朝廷はその後も都の改築費や軍事費を捻出するため、通貨鋳造を繰り返す。和同開珎以降、平安時代の10世紀までに朝廷が発行した銅銭を総称して、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼ぶ。

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