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住友銀行とイトマン事件、魑魅魍魎の暗黒史

文=有森隆/ジャーナリスト
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『海峡に立つ 泥と血の我が半生』(許永中/小学館)

 8月に『海峡に立つ 泥と血の我が半生』(許永中/小学館)が出版された。

 第七章「在日の本懐」で許は、絵画ビジネスについてこう書いている。

<当時、三菱商事が絵画を担保とする金融業を始めていた。天下の三菱が美術品を担保に金融をやっているのだ。河村さん率いるイトマンがこの道に金脈を見たのは必然とも言えた>

<ソウルで飲み歩いていたのが、イトマン社長だった河村良彦さんだ。1991年に起きたイトマン事件では、河村さんはあろうことか、私(許永中)を大阪地検に告訴する側に回る。法廷の場では、私の顔を見ることすらできなかった>

 河村との邂逅は<イトマンに経営参加していた協和綜合開発研究所所長の伊藤寿永光からの連絡>だった。

<私と伊藤とは87年の雅叙園観光ホテル買収事案ですでに出会っていた。(略)伊藤から連絡を受けて、夜中10時頃、ホテル(オークラ)の部屋を訪ねた>

 そこでイトマンの系列繊維商社で東証2部上場の「立川」株式をめぐってイトマンとアイチの森下が攻防を繰り広げていた。

<(アイチと河村との間で、筆頭株主の座を争う闘いが続いていたが)その裏で伊藤と森下が手を組み、新たに取得した立川株の一部をアイチに売り渡す密約を結んでいたという――。伊藤と森下は、その一部の10億円を謝礼とし河村さんに渡したという。これはもちろん裏金となり、業務上横領となる。河村さんが金を受け取ったのは、自社株を自分で買いたがったからだ。これにより(河村は)森下と伊藤から決定的な弱みを握られてしまった>

<「それは具合が悪い。わかりました」。私はそういって翌日、10億円の現金を持参して森下のところにはせ参じた。金は渡すからこれはもうない話やで。そういって10億円を渡し、領収書ももらって翌日河村さんに渡した>

 これで河村は許の足元にひざまずくことになった、と私は見ている。

<ある日、イトマンの専務がこんな話を持ってきた。「弊社が持っているロートレック・コレクションを買ってもらえませんか」>

 事実はこうである。以下、拙著『住友銀行暗黒史』(さくら舎、2017年2月刊)を引用する。

 河村にかかってきた一本の電話。当初、河村は磯田(一郎住友銀行会長)の愛娘、園子の「たっての頼みをかなえるため」に絵画取引に手を染めた。

「河村さん、先般は何かとご配慮をいただきましてありがとうございました。さっそくですが、実はピサが買い付けを予定しているロートレック・コレクションの絵画類があるんです。イトマンさんで買っていただけませんでしょうか。あるいはどなたか適当な買い手を探していただけませんか…」

 首都高速を走行中のイトマン社長、河村良彦の自動車電話に一本の電話がかかってきた。電話の主は磯田の娘、黒川園子。1989(平成元)年11月のことだった。磯田には男女二人の子供がいた。長女が園子。磯田は「園子、園子」と目の中に入れても痛くないほど溺愛した。

 園子はバツイチだ。同志社女子大を卒業。住友金属の“帝王”といわれた日向方齊の仲人により、住友金属工業の副社長から住友特殊金属社長に天下った岡田典重の長男と、70年に結婚した。一女をもうけながら、男と米国に“駆け落ち”するという奔放な一面をもつ。園子は10年後に一人娘を引き取って離婚した。

 正式離婚を受けて、駆け落ちの相手である東レにいた黒川洋と再婚した。黒川洋は婦人服販売会社ジャパンスコープと革製品販売会社ファーラウトの社長を務め、園子は両社の取締役。2社は園子夫妻の会社だ。

 父親の寵愛を一身に受け、蝶よ花よと育てられた園子は、家庭におさまるタイプではなかった。82年7月、セゾングループ系の高級美術品、宝飾品販売店ピサに、美術品担当の契約嘱託社員として入社した。セゾングループ代表の堤清二に磯田が頼んで入れたのである。当時は“ピサの女帝”と呼ばれ、「役員ではないが絶大な権力を持っていた」と西武関係者の間では噂されていた。

 園子が電話をかけてきた後、河村には園子の夫である黒川洋からも同じ主旨の電話があった。88年に設立されたジャパンスコープを河村は何かとバックアップしている。イトマンから無給で経理課長を出向させたり、赤字のときは融資もした。90年に設立されたファーラウトにはイトマンが20%(400万円)出資している。河村が園子夫妻を支援したのは、もちろん二人の背後に住銀の磯田天皇がいたからにほかならない。

「磯田の番頭」(実態は裏カード)を自認していた河村は、磯田から頼まれて園子の面倒を見てきた。園子から依頼を受けた河村は、ピサの件でも「是非ご要望にそえるよう前向きに検討させていただきます」と答えて電話を切った。

 伊藤寿永光の証言によると「河村は名古屋支店長の加藤吉邦専務と自分に絵画取引について相談した。加藤が『ちょうど住友銀行から絵画担保ローンの客を紹介してもらっているので、イトマンで始めたらどうか』と賛成したことから絵画ビジネスが始まった」ということになる。絵画ビジネスのスタートラインが園子で、住友銀行から絵画担保ローンの話がきていたことが、いわば同事業を推進する際の原点になったのである。

 月刊誌「文藝春秋」(文藝春秋)の河村手記では<住友銀行関係者の紹介ですでに知り合っていた伊藤君に絵の話をしてみたのです。そうしますと伊藤君がすぐ飛びついてきました。彼は絵画について素人だと思っていたら、「私の知り合いには絵画をちゃんと知っている人がおりますし、百貨店にも知っている人がおります。是非、私にやらせてください」と言ってやりだしたのです>。「絵画をちゃんと知っている人」とは許永中で、「百貨店」とは西武百貨店のことなのだろう。そう考えると納得がいく。

住銀関連企業に喰い込んだジャパンスコープ

 ジャパンスコープ社長の黒川洋について付言する。園子は黒川洋と再婚だったと先に述べた。初婚のときは「最初から(園子は)乗り気でなかったらしい」と住友銀行の元常務は証言する。前夫の友人も当時、首をヒネっていた。「離婚の原因といわれても、皆目見当がつかない。前夫も「いまもってサッパリ訳がわからん」といっています。とにかく、突然、飛び出しちゃった。後で磯田さんが、『じつは娘はある男とアメリカへ行っている』と謝りに来たそうです…」

 正式離婚は80年。すったもんだがおさまった後、園子と洋を結びつけたのは戦後のレナウングループ創設者、尾上清だという。洋は名門の出身だ。一族に黒川久・元三菱油化会長、渡辺文夫・元日本航空会長を持つ華麗な家系である。1942(昭和17)年3月生まれで、学習院大学卒業と同時に東京12チャンネル(現・テレビ東京)に入社した。2年後に東レに移り、73年にインターモードというアパレルメーカーに出向。さらに88年1月にジャパンスコープを設立。同社の代表取締役に就任している。

~以上、『住友銀行暗黒史』からの引用~

 以下、許永中の自叙伝は不可解な記述が続く。

<当時のイトマン専務(加藤吉邦のこと、有森注)は元住銀名古屋支店長で、名古屋時代に伊藤と出会っている>

 加藤が住銀の名古屋支店長? まったく違う。旧イトマンの幹部に、この稿を書くにあたり再度確認したが、河村良彦社長が住銀のノンキャリの加藤をイトマンに引っ張ってきた。住銀の名古屋支店長ではない。イトマンの名古屋支店長である。<94年9月には専務の後任である住銀名古屋支店長が射殺されている>。このあたりの記述はめちゃくちゃとしか言いようがない。

 拙著『企業舎弟 闇の抗争』(講談社+α文庫)で詳しく書いているので、ほんの一部を抜き出してみる。

<1994年9月14日早朝、闇の世界からの一発の銃弾が住友銀行(現三井住友銀行)の「信用」を撃ち抜いた。畑中和文・住友銀行名古屋支店長(当時)が同市千種区のマンションの自室前の通路で射殺された事件は金融機関だけでなく、経済・産業界に大きな衝撃を与えた。右目の上から後頭部に向かって弾は貫通しており、右足を折り、左足を投げ出して座るような格好で、血まみれになって倒れていた>

<住友銀行の組織全体にダメージを与えるための犯行だったのか。同名古屋支店に固有の融資トラブルがあったのか。はたまた“やり手”と評判だった畑中支店長に対する個人的な怨恨なのか?>

<「イトマン関連の敗戦処理は大阪本店融資第三部(融三)が担当したことになっているが、数が多すぎて一部は船場(せんば)支店に流れた。その時の支店長が畑中で、その関係を引きずっていた、との内部証言もある>

 他の“事件”は詳細にいろいろ憶えているのにイトマンと石橋産業だけ記憶があいまいなのはおかしい。自叙伝は意図的に間違えているのかもしれない。<(イトマン事件に)関わった人間たちの殆どが不幸にも人生の奈落に落ちていった>。許永中のこの言葉は、まさにその通りだ。

 住友グループの守護神としてヤメ検の小嶌信勝弁護士が登場。<住友本家である「泉屋」の顧問弁護士だった><弁護士でありながら地検特捜部に入り浸り、時には自ら事件の資料を持ち込むことさえあった>と記述している。イトマン事件当時、小嶌弁護士が表舞台に姿を見せることは、ほとんどなかった。

 イトマン、石橋産業で許永中は事件のセンター(主役)だったから、書けないことがたくさんあるのだろう。さらりとし過ぎておもしろみに欠けるのはそのためか。当事者の自叙伝としては薄味である。イトマン、石橋産業事件に関する叙述には1600円+税を払う価値はないかもしれない。

興味深いエピソード満載

 一方で、第四章「実業の世界へ」、第六章「京都へ」は興味深い。紀陽銀行の山口寿一頭取(当時)が引責辞任することになる大型リゾート開発「フォレストシティ」計画や阪和銀行(倒産して今はもうない)橋本竹治頭取(当時)逮捕事件など、和歌山のもろもろの経済事件に登場する(といわれた)“ミニ・フィクサー”西村嘉一郎が出てくる。<私に“事業”のイロハを最初に示してくれた男だ>。

 許永中が、昭和妖怪のひとりと数えられた大谷貴義の秘書をしていたくだりから始まり、大谷邸の増築工事が完了した祝いの会の受け付けを、許と並んで松下電器産業の松下正治社長(当時)がしたことなど、実に興味深い。有森は大谷の和歌山のオフィスを訪ねたことがある。

<大谷さんは、松下幸之助さんとは同じ和歌山県人としての付き合いもあり、同社(=松下電器)の“社友”の名刺を利用していた>

 大谷貴義は<歴史の綾とも言える終戦処理に乗じて莫大な資産を形成し、本業の宝石卸では「日本の宝石王」の異名をとるほどの地位を築いた。一方で政治界にも隠然たる影響力を持ち>と描写されている。大谷に近かった政治家の名前が複数書かれている。

 第六章では福本邦雄、山段芳春が出てくる。川崎定徳の佐藤茂、亀井静香代議士も登場。福本の事務所で佐藤茂と会うシーンがある。竹井博友、長田庄一、光進の小谷光浩や投資ジャーナルの中江滋樹など<魑魅魍魎が入り乱れていた>。

 KBS京都の話は許永中側から見た一方の“事実”である。KBS京都に竹下登の娘婿の内藤武宣を常務でハメ込むように依頼したのが福本(竹下登の意向を受けて)とある。KBS京都の社長になった<福本と内藤常務はふたりして夜毎、祇園の老舗お茶屋さんである「富美代」に繰り出し、優雅な京都生活を堪能されていた>。

 白眉は京都銀行株をセゾンの堤清二が買おうとしたあたり。結局、約束を反故にした堤清二に対し許は、いい感情を持っていないことを隠さない。京都銀行株をアイチの森下安道が買い占めて、その株を許永中が引き取り、京都銀行の了解のもと堤のところに持っていくという話は実におもしろかった。堤が京都銀行の筆頭株主となるというシナリオだった。

<アイチの森下さんには、グループの保有する株式を全て森下さんのところに集約してもらい、取引当日、帝国ホテルの部屋に持参してもらうことにした。1株当たりの取引単価は、当日の市場価格とする。保有株は2500万株。概ね2100円前後で推移していたので、総額約540億円になる>

<「誠に申し訳ないのですが、現金を用意しますので、運び込む部屋をそちら(許永中)で用意して頂けませんか」(と西武百貨店の山崎光雄社長)。さすがにこの額の現金の運搬には(許永中も)頭を抱えてしまった。1億円のブロックが540個だ。現金輸送車やガードマンの確保。部屋から駐車場までの動線チェック。(中略)なんとか森下さんの了解を得て、私がせねばならない用意を整えた>。

 ハプニングは受け渡し当日に起きた。堤がドタキャンしたと、許は書く。

<京都銀行と堤を訴えるという森下に対して、許永中は「全株式を今日の株価で私が全部引き取ります。その金が用意できるまで、株を担保に年20%の金利で金を貸して下さい」と森下に言い、森下の目の色が変わった>

 後日談がある。

<京都銀行の処理について、最後まで(買い手として)残った京都を代表する有名企業について京都銀行側が難色を示し、ご破算になった>

<結局、この件を完全解決するのに、堤さんのドタキャン劇から2年近くを要することになった。その間、アイチに毎月払った金利だけでも単純計算で約9億円である。借りたお金の約2割分の担保を別途差し入れていたが、私が訳ありで大量保有していた日本レース株と新井組の株だった。(中略)こうして私が保有した京都銀行株は最終的に3000万株近くに膨らんだ>

 最終的に政府系の金融機関が買うことになった。<引き取りの金額は1株2500円なのですが、その1割高の株価を6カ月間、市場で維持してくれとの要請なんですよ>と京都銀行の副頭取と専務(二人の実名が書かれている)が要請した、とある。1割高といえば1株2750円である。この株価を半年間維持せよというのは、ズバリ株価操作である。許が書いていることが事実なら、文字通り<表に出たらエライことになる>案件だった。

 もし、この自叙伝の通りなら、京都銀行は許永中に膨大な“借り”を作ったことになる。この“借り”は返したのだろうか。返したとするなら、どうやって? アイチの森下に対しても許はシンパシーを感じている部分があって、思わず、笑ってしまった。

 話を少し前に戻す。福本の事務所で許が紹介を受けたのが、西武百貨店の社長の山崎光雄。彼と会うシーンもリアリティがある。

<「山崎光雄です。関西店がえらくお世話になっているようで、ありがとうございます」、「いえいえ、お世話になっているのは私の方です。特に、つかしん店の皆さんには、なにからなにまでお世話になっています」>

<「ところで永中さん、堤(清二)と僕(福本)とは学生時代からの仲間でね。読売の渡邉恒雄も、日本テレビの氏家齋一郎もみんなそうなんだ」、「それで、この山崎社長とはどんな関係があるんですか?」、「山崎君は、どうも君(許永中)に遠慮があるみたいでね。私(福本)が代弁すると、堤清二がどうしても京都銀行の主になりたいと言うんだよ」、「銀行の頭取にですか?」、「いや銀行の経営者にはなりたくないらしい。本人は文学者気取りだから、金貸しを卑下していてな。まあ、君臨すれども統治せず。いや、大株主になって、オーナーとしての立場になりたいということだよ」。「京都銀行のオーナーになれたら、百貨店などの現場から手を引いて、物書きに専念するということですか?」、「メインバンクからゴチャゴチャ言われるのがたまらんのだろう。(中略)まあ、そういうことだから、何とか山崎君の話を聞いて、力になってくれんかね」>

 拙著「住友銀行暗黒史」をもう一度引用する。

<西武百貨店塚新店の「鑑定評価書」

 91年2月に入り、イトマンが許永中ルートで購入した絵画、工芸品、掛け軸など美術品291点のうちかなりの作品に、西武百貨店塚新店(通称・つかしん店、兵庫県尼崎市。現・グンゼタウンセンターつかしん)の家庭外商三課長、福本玉樹による「鑑定評価書」が付けられていることがわかり、絵画疑惑の霧は一層深まった。

福本は、この鑑定書を独断でつくったことを理由に、同年2月19日付で西武百貨店を懲戒解雇された。有力画商が「相場の2~3倍」という「鑑定評価書」がどのような目的で作成され、どう使われたかに、大阪地検は注目していた。

 福本は毎日新聞とのインタビューで「許永中から美術館を設立するので、鑑定書のようなものが欲しいと頼まれ、つくった」と答えている。毎日新聞(91年3月3日付大阪版朝刊)の一問一答を引用する。

――相場の二~三倍の評価額にしたのは許側から「高くしてくれ」と注文されたためか。

課長 そうではない。ただ、許には(西武から)高額の絵画を購入してもらっており、(買値以上の)高い評価額をつけてあげれば喜ぶだろなと思った。たしかに販売価格や時価より(評価価格は)高いが、私のこれまでの美術品担当としての経験などから、今後の上昇分をふくめてつけた。鑑定評価書はアルバイトの女店員を使ってホテルで作り、大阪市内の印刷会社に回した。

――許との取引はいつからか。

課長 許はセゾングループの宝飾品会社「ピサ」(東京)の客だったが、昭和六十年(八五年)九月、大阪市内のロイヤルホテルで開かれた絵画展示場で知り合った。

――西武百貨店の役員は、鑑定評価書について知っていたのか。

課長 もちろんだ。在大阪の取締役には作成途中にも報告し、「しっかりやってくれ」といわれた。

――絵画の評価額について、役員は承知していたのか。

課長 納入価格や評価額を一覧表にするなどして役員に事前、事後に報告した。当然知っていたはずだ。

――西武は評価書の社印は「偽造」と説明しているが。

課長 店(塚新店)では数年前から使っており、そのことは他の社員も知っている。

 許永中はもともとピサの客であり、高額鑑定書づくりは、(西武百貨店の)役員の事前の了承を得てやった、と福本は主張する。一方、西武百貨店側は「役員は『鑑定書など見たこともない』と話している」と反論する。が、もし、課長が鑑定書を“独断”でつくったのなら、西武百貨店は「有印私文書偽造」で告訴したらいいのだ。どうしてやらなかったのだろうか。

 西武百貨店塚新店の元課長による鑑定評価書がらみでは、91年1月25日付(奇しくも、イトマン社長、河村の解任された日)で、福本が書いたとされる怪文書が出回ることになる。内容はズバリ、セゾングループ最高首脳の絵画取引への関与の指摘である。

 ワープロ書きで西武百貨店の便箋を使っている。イトマンの経営危機が表面化した発端となった、「従業員一同」の名で大蔵省銀行局長などに出された内部告発状もイトマン用箋に書かれていた。内部告発の真実味を増すために、あえて社内便箋を使ったのだろうか。

 絵画の高値鑑定については、不動産会社の首脳がおもしろいことをいう。「地上げの際によく使われる手」なのだそうだ。ある土地がどうしても欲しいとする。所有者は「10億円なら売る」と考えているが、国土法の規制や不動産総量規制で不動産業者が8億円しか出せないときがある。こんなときは規制額ギリギリで土地を買ったことにして、「残り2億円は絵画のキャッチボールで埋める」のだそうだ。土地の所有者がまず絵を買い、すぐに転売する。この際に2億円分の差益を上乗せして、画商に引き取らせるのだ。その後、画商と不動産会社の間で相対決済する仕組みである。高値鑑定書は、実際の価格以上で売買されたときの証明に不可欠なのである。

 平相吸収で使われた手口と同じなのか。

 絵画を別の取引を成立させるための潤滑油にする手法は、住友銀行の磯田による平和相互銀行買収の大詰めでも使われた。使われたのは屏風「蒔絵時代行列」である。一般には“金屏風事件”のほうが通りがいい>。

 イトマン、石橋産業事件以外のところだけでも1600円+税金を払う価値ありだ。ここでは触れていないが闇の世界のオールキャストが顔を揃えている。ただ、許といえばイトマン事件である。彼が見た本当の風景を正直に伝えてほしかった。ないものねだりなのだろうか。

(敬称略、文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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