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ジャーナリズム

小室圭さん一家バッシングと、皇室内部の“皇室近代化”への反発

構成=兜森衛
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週刊誌が小室家バッシング一色になる理由

――出版メディアは右翼にどう対処してきたのでしょうか。

篠田 直接的に暴力でやられると、それに対する対策といっても限界がある。決着をつける、あるいは右翼に何かをされるにしても、それがタブーを強めて萎縮につながらないような歯止めが必要で、それがどこまでできたかが問われると思うんですよね。だから、今回本で取り上げた事件も、どういう決着でどういう影響を残したかを検証したつもりです。

 今は昔みたいな暴力的な事件が少なくなっていますが、自主規制がそれに代わっているからだと思います。危ないモノは企画の段階で潰れているのです。昔は皇室問題をやらなければいけない、天皇の戦争責任を追及しようという意識も多少はあって、やり方をどうしようかという議論があったんだけど、今はそういう企画が上がっただけで「やめとけ」となっている。

――週刊誌報道が横並びなのは、皇室内部の保守派の影響なのでしょうか?

篠田 美智子さまバッシング、雅子さまバッシング、秋篠宮家の眞子さまの結婚問題での小室家バッシングなどのバッシング報道には、本にも書きましたが、すごく共通している構造があるんです。皇室の内部に皇室が近代化することに対する反発が出てきて、これはある種のタブーの変形だと思うんだけど、それにマスコミが乗っかっている。だから、週刊誌が小室家バッシングで一色になるんです。

 皇室内部には伝統を守れという人たちがいて、ある種の近代化に対して抵抗する力が働く。雅子妃バッシングに関しても、彼女が女性としての生き方を追求することに対しては反発があって、眞子さまについても結婚は個人で決めるものという近代的な考え方を導入することに対する反発が皇室の保守派のなかにある。問題なのは週刊誌がそれに依拠することで一色になっていることです。これは、形を変えた皇室タブーだと思うんですけどね。よって立つ論拠そのものが、皇室内部の保守派の論拠そのものだからね。

『皇室タブー』 改元と天皇の代替わりがお祭り騒ぎだけで終わろうとしている状況下で、象徴天皇制について改めて考える。1961年、右翼少年による刺殺事件が出版界を恐怖に陥れ、深沢七郎さんの小説「風流夢譚」は封印された。その後50年を経て、封印は解かれつつあるのだが、果たして出版界は皇室タブーの呪縛から逃れられているのだろうか。皇室を扱った表現がその後も回収や差し替えにあっている現実をたどることで何が見えてくるのか。 amazon_associate_logo.jpg

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