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“腐蝕企業”関西電力…公益企業を私物化した歴代経営陣の「飽くなき人事抗争」

文=有森隆/ジャーナリスト
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関西電力、金品受領問題で会見 会見に応じる八木誠会長(左)と岩根茂樹社長(右)(写真:日刊現代/アフロ)

 関西電力という会社を知る意味で拙著を読んでいただきたい。『社長解任 権力抗争の内幕』(さくら舎、2016年2月刊)である。「第二章 公私混同」で関西電力の二・二六事件、ドン・芦原義重が追い落とされたクーデターの顚末を取り上げている。長くなるが、今回の関電の惨状が、さもありなんと思える事実が赤裸々に綴られているので以下に引用する。

ドンを追い落とした“関電二・二六事件”

“関電の二・二六事件”と呼ばれるクーデターが、取締役会で起きた。突然の解任動議が出されてクビになったのは関電のドンの芦原義重・代表取締役名誉会長と、懐刀の内藤千百里(ちもり)副社長だった。芦原は相談役名誉会長に棚上げになり、内藤は関電産業(現・関電不動産)の社長に飛ばされた。関電は「芦原-内藤体制」と言われ、会長や社長をしのぐ権力を握っていた。

 クーデターを仕組んだのはドンの秘蔵っ子の小林庄一郎会長だ。権力を奪取するために強権を発動した。経営方針の食い違いといった上等なものではない。ドンの寵愛をめぐる子飼いたちの“三角関係”のもつれ、痴話喧嘩の果ての下剋上だった。

「緊急動議があります!」

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『社長解任 権力抗争の内幕』(有森隆/さくら舎)

 一九八七年二月二六日午前一〇時三〇分、関西電力の定例取締役会は大阪・中之島の本社一一階の第一会議室で開かれた。三〇人の取締役がいたが、病欠などの二人を除く二八人が顔を揃えた。型通りに議事が進み、最後の第六号議案「その他」に入った。議長の小林庄一郎会長が突然、こう切り出した。

「緊急動議があります。人事案件についてお諮りします」

 即座に事務方が封筒に入った資料を配った。それは六月末の株主総会に諮る、来期の取締役候補のリストだった。この種の人事案件は、三月の決算が終了した後の取締役会で審議されるのがセオリーだが、会長の小林は“芦原天皇”に不意打ちを食らわせた。

 リストの末尾に「退任予定者」の項目があって、五人の名前が列記されていた。高齢や病気で退任する人に交じり、名誉会長の芦原義重、副社長の内藤千百里が入っていた。

 関電のドン芦原とその懐刀の内藤の追放を狙ったクーデター劇の幕が切って落とされた。「週刊朝日」(一九八七年三月一三日号)は取締役会のやり取りを生々しく報じた。

<小林氏が「財界筋からも、関西電力の中に不協和音が流れていると指摘されています。社内に業務の遂行に困難な状況が生まれているのは確かで、全社員がうって一丸となれるよう、多少早いのですが、新役員の人事を決めたいと思います」と趣旨説明を行うと、隣の席の芦原氏が(小林の)言葉をさえぎるように発言した。「慣例にないことだ。こんなもの違法ではないか」口調は淡々としていたが、興奮のあまり腹が大きく波打っていた。つづいて内藤氏が「ちょっと待て、小林。大恩ある人をこんな目にあわせて、お前、それでも人間かッ!!」と怒鳴ったが、小林氏は少しもひるまず「どうせ、キミがそのぐらいのことをいうのは覚悟しとったよ。動議に賛成の人は手を挙げ続けてください。事務局、数えて」と採決を促した。賛成したのは出席した二八人中二二人。圧倒的多数で可決された>

 哀れをとどめたのは、芦原の娘婿である社長の森井清二だった。社長という経営トップの座にありながら、クーデターでは蚊帳の外に置かれた。小林が事前に計画を知らせて固めた票は一八人だったが、計画が漏れるのを防ぐために森井には知らせなかった。

 内藤によると「積極的に手を挙げたのは小林氏の腹心の宮崎勇専務、秋山喜久、吉山文雄取締役の三人ぐらい。あとはみな、うつむいたまま手を挙げていたし、途中から手を挙げた者も何人もいた」という状況だったらしい。取締役会に向かう廊下で初めて小林からクーデター計画を知らされた森井は唖然とし、会議中は青ざめたまま。採決は棄権したという。

“関電の二・二六事件”では、当事者たちが自分の正当性を主張するために、メディアに積極的に登場した。社長の森井は事件について沈黙を貫いたが、芦原、内藤、小林の“三人衆”は饒舌だった。上がしゃべるから下もしゃべる。口を閉ざしていた幹部社員から「私物化」「恐怖政治」といった批判の声が噴出した。関電の恥部が天下にさらされた。

「ボクは老害なんて言われてことはないんだ」

 関電のドン、芦原義重はしゃべりまくった。「文藝春秋」(一九八七年五月号)に「飼い犬に手を咬まれるの記」を寄稿した。当時、御年八六歳。六四歳の小林を新人類と切って捨て、怪気炎を上げた。

<ボクのことを老害やなんて言う人もおるようやけど、ボクがいったい何の害になっておるでしょうか。老人ちゅうのは個人差があって、害があるかないかちゅうのは年齢に関係ない。ボクは政治家とか学者とか財界人とかに、アンタは物忘れするようになって老害がありますよ、なんて言われたことは一度もないんだ。年齢だけで老害なんて言うのは、単純すぎますよ。

 まァ、小林君のような新人類はそう言うかも分らんけど、モノサシが違うんです。だから、二月二十六日の取締役会でああいう措置を取られるなんて、全く予想していなかった。あの時にボクが激怒したなんて言われとるけど、激怒なんかしやせんですよ。来期の取締役候補者の名簿というんが急に出てきたけど、ボクの名前が入っとるかどうか、分からんかった。虫メガネでもないと読めへんから。横にいた内藤君が何か言うとったから、それで分かったんだ。だから小林君に、ちょっとおかしいやないか、関電の四十年の慣例にもないことだ、と注意したんだ>

本当は内藤を切るためのクーデターだった

 新人類と罵倒された小林も黙っていない。これまた、よくしゃべった。

<今回のことは、けっして芦原さんを追い落とすためではない。すべては内藤(千百里副社長)君を切りたいためだった。とかく当社は、“芦原のファミリー会社”とか“公私混同”であるとか批判を受ける。そうした評判を作ってしまった内藤君を切るためには、彼と一心同体になっておられる芦原名誉会長にも辞めていただくしかなかった。関電は一種の“恐怖政治”だったのです。内藤君を通さないと、芦原さんに会えない。すべて内藤・芦原ラインで決せられる。担当外のことでも、内藤君の意向も聞いてから稟議しないと、途中で蹴られてしまう>

 関電の闇の帝王と指弾された内藤も、メディアに登場して、会長の小林があげた罪状に、いちいち反駁した。当事者の双方が、悪罵の投げ合いを演じたわけだが、世間では「あのコワモテの内藤が尻尾を巻いて引き下がるとは思えない。内藤が逆襲に出て、関電のお家騒動の第二幕が上がる」との期待が高まっていた。

 ところが内藤があっさり引き下がった。なぜ、内藤が矛を収めたのか、謎とされてきたが、近年、反撃しなかった理由を本人自身がこう語っている。

<(一九八七年の関電二・二六事件では)突然、小林が退任を迫った。芦原さんは怒りで呼吸が激しくなり、胸が大きく波打っていた。私は「待て、おまえはそれでも人間か」と言った。腹が立ち、本を書こうと思った。それを聞きつけた東京電力の平岩(外四)さんに東京へ呼ばれた。うなぎ屋の個室で二人っきり。「西からそんな問題を起こされたら困る。内藤さん、本を書かないで下さい」と手をついて頼まれた。芦原さんに迷惑はかけられない。「わかりました」と返事した>

芦原のために働く子飼いの二人

 芦原が社長に就いた一九五九年、最初の社長秘書になったのが小林庄一郎である。中国大連生まれ。東京帝国大学経済学部卒。一九四六年、関西電力の前身である関西配電に入社した。芦原によると「ボクが入社試験をやって、(小林を)入社させた」。

 芦原に認められて、最年少の常務、専務、副社長とエリートコースを歩んだ。一九七七年には、さらに大抜擢され四人の先輩副社長を飛び越えて五代目社長になった。当時、次期社長の有力候補は筆頭副社長の石黒久だった。だが、石黒が力をつけてきたことにドンの芦原は警戒したのだろう。内藤が先兵になって、石黒グループを徹底的に弾圧した。関電の社内では「石黒軍団壊滅事件」と呼ばれている。

 NO2を叩き潰した芦原は、子飼いの小林を社長に据えた。その後、小林は一九八五年、会長に就いた。小林は電力九社の集まりである電気事業連合会の会長になるなど、名実共に芦原の後継者として出世の階段を駆け上がっていった。クーデター劇の席上、内藤が小林を「恩知らず」と罵ったのは、こんないきさつがあったからである。

 一方の内藤千百里は京都帝国大学経済学部卒。小林に一年遅れ、一九四七年に関西配電に入社した。小林、内藤が入社した時、芦原はすでに関西配電の取締役だった。芦原は二人を将来、関電を背負って立つ人材と見込み、そばに置いた。

 内藤は一九六二年、小林に続いて芦原の二代目の社長秘書を務めた。その後も、芦原の最側近であり続けた。内藤は「私は会社のために働くというより、芦原のために働くという意識の方が強い」と堂々と言ってのけた。

 ひたすら芦原に忠誠を尽くす内藤を芦原は重宝し、一九八三年、副社長に引き上げた。副社長という地位になっても、内藤は「芦原の秘書」を自認した。だから、“副社長秘書”は自分の手帳の予定欄を二分割して、芦原の全てのスケジュールを書き込めるようにした。ゴルフの後、風呂場で芦原の背中を流す内藤の姿を見て、のけぞった関西の財界人がいたという。

政界工作の「汚れ役」を一手に引き受けた内藤

 芦原の権力の源泉は政界とのパイプにあった。長年にわたって毎週のように上京し、主要な政財界人と秘密裏に会っていた。こうした場面に、たえず黒子のように付き添っていたのが内藤だったという。内藤は芦原の秘書時代から黒子に徹してきた。だが、単なる芦原のカバン持ちではなかった。芦原の秘書として、政財界、学者、ジャーナリストなどとの会合に小まめに足を運び、人脈を築いていった。芦原の巨大な力を背景に、社内外の重要人事に介入し、中央政界との連絡役を精力的に務めた。関電の業務遂行に不可欠な“汚れ役”を一手に引き受けてきた。

 政界との結びつきが強い電力業界にあって、内藤は「電力の政治部長」との異名を取り、関西の政治がらみの話はすべて取り仕切ったと言わるほどの陰の実力者になっていった。後年、内藤は政界工作の内幕を語った。朝日新聞は「原発利権を追う」の連載記事で『関電の裏面史 内藤千百里・元副社長の独白』(二〇一四年七月二八日付朝刊)を掲載した。

<関西電力で政界工作を長年、担った内藤千百里(ちもり)・元副社長(91)が朝日新聞の取材に応じ、少なくとも1972年から18年間、在任中の歴代首相7人に「盆暮れに1千万円ずつ献金してきた」と証言した。政界全体に配った資金は年間数億円に上ったという。原発政策の推進や電力会社の発展が目的で、「原資はすべて電気料金だった」と語った。多額の電力マネーを政権中枢に流し込んできた歴史を当事者が実名で明らかにした。内藤氏が献金したと証言した7人は、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登の各元首相(中曽根氏以外は故人)>

 内藤は政治献金について「関電のみならず関西財界を東京と同じレベルにすることを目的とした。芦原義重元会長は、その結果、総理大臣と一対一でいつでも話し合える関係になった」と証言している。

 政界と太いパイプを築いたことが芦原の権力の源泉となった。内藤はドンの根回し役に徹し、根回しの名人になった。だから、芦原=内藤ラインは、会長の小林や社長の森井を上回る大きな権力を握ることができたのだ。

ドンを名誉職に棚上げする小林の策謀

 芦原の側近だった内藤と小林の間に亀裂が走ったのは、一九八五年一一月の首脳人事からだった。会長の芦原が名誉会長、社長の小林庄一郎が会長、副社長の森井清二が社長に昇格したトップ人事である。

 森井は京都大学工学部を卒業した技術者で、芦原の娘婿だった。「公益企業の電力会社を芦原のファミリー会社に変えた」と、この社長人事は社内外で物議を醸した。小林は社長になった時、芦原から「一〇年はやらせる」と言われていたのに、八年半で芦原の娘婿の森井副社長に交代させられた。任期途中の交代がシコリとなって、芦原政治の両輪だった小林と内藤が対立するようになった、と解説する向きがある。

 だが、事実は異なる。小林は「森井が適任と思って社長に決めた」と語っている。小林は内藤に劣らず、なかなかの策謀家であった。小林の狙いは会長の芦原を名誉会長に棚上げすることだった。芦原の娘婿の森井を社長に引き上げれば、名誉会長への棚上げ案に対する芦原の反対を封じることができると踏んだ。おとなしい森井を社長に据えて、小林が実力会長として、芦原に代わって関電のドンになるというシナリオだった。内藤に、その意図を見透かされないように、小林は「森井社長案」を内藤には漏らさないよう、芦原に口止めしたというエピソードが残っている。「次期社長の人事が内藤が知らないうちに決められたことから、内藤が自分の悪口を芦原に吹き込むようになった」と小林は述懐している。

社内に張りめぐらされた内藤特務機関

<その内部は真っ暗闇で、外からはもちろん、内部の人間にもどうなっているのかさっぱりわからない。とりわけ人事は密室人事である>

 龍谷大学教授だった奥村宏は、「朝日ジャーナル」(一九八六年九月一二日号)の「関西電力 暗黒大陸」で、こう書いた。社長である小林庄一郎が会長になり、芦原の娘婿である副社長の森井清二が社長になった私物化人事を指している。この人事の解釈は諸説あったが、奥村は二つの説を俎上に載せた。

 ひとつは芦原が関西経済連合会会長の日向方齊に対して、小林を次の関経連会長に据えるよう迫ったというもの。日向は一九八七年に関経連会長の任期が切れる。日向は東洋紡績会長の宇野収を後釜に考えているが、日向嫌いの芦原は日向主導の人事を覆そうとした。小林を関経連会長に押し込むために関電の会長に就けたというわけだ。もうひとつが、小林引きずりおろし説。これまで関電の体制は芦原=内藤体制と言われ、内藤千百里副社長が絶対的な権力を持っていた。

 清水一行の『小説財界』(集英社文庫)に関西電力は大阪電力、芦原は芦塚、内藤は「藤井特務機関」を率いる藤井という名前で登場する。

<藤井特務機関…というのは、大阪電力社内における、藤井を頂点とする情報網を指している。もちろん特務機関などと呼ばれるくらいだったから、社員たちに恐れられこそすれ、歓迎される組織ではなかった。

 藤井は芦塚の股肱の臣として、社内的に藤井直結の親衛隊を配置し、二重三重のスパイ網を張り巡らしながら、幹部社員の動向を常にキャッチしていた。そして幹部社員の中に、芦塚体制を批判する不穏な動きがあると、いち早く芦塚から与えられた人事権を行使し、事前にそれらの芽を摘み取ることで、現在の確固たる芦塚天皇・・・体制を築いてきたのだった>

 この芦原=内藤体制に対して社内から批判の動きがでてきた。そうなると、相対的に小林の評価が高まる。そこで、芦原=内藤は、小林人気が、これ以上、社内で出てくるのを恐れ、社長一〇年の約束を反故にして、小林を社長から降ろし、娘婿の森井を社長に据えたというものだ。当時、最も行き渡っていた説だ。

 実際は、先に述べたように、小林が芦原の棚上げと内藤外しを狙って仕掛けたクーデターの序章だった。小林自身も秘かに会長になったら関経連会長のポストを、との野心を抱いていた。ドン・芦原の下で、側近たちは十重二十重と陰謀を巡らしていたのである。

関電の中枢に居座る芦原ファミリー

 クーデターで芦原と内藤が追放されると、堰を切ったように社内から芦原の「私物化」批判が噴出した。寡黙だった関電の幹部たちがマスコミによくしゃべるようになった。前出の「週刊朝日」は、関電幹部がこう内幕を明かしたと報じた。

<関電の孫会社に「関西レコードマネジメント」という文書類の記録やマイクロフィルム化する専門会社があります。ここの社長は阪根新氏といって、芦原氏の娘婿ですが、この会社が関電の事務の効率化やシステム化を一手に独占しているんです。

 このほか「関西テック」(現・かんでんエンジニアリング)といって、発電所のメンテナンスをする関電の子会社がありますが、ここの柏岡啓二社長は芦原氏の次男です。いずれも内藤氏が芦原氏のご機嫌取りのために裏で動いた(人事)といわれています。また三男の芦原義倫氏は本社営業部長だし、情報通信本部の幹部にも芦原氏の親戚がいます>

 芦原の娘婿である森井が本丸の社長に座っただけではない。芦原ファミリーが関電の中枢部や関連企業をがっちり押さえていたことになる。関電は芦原がオーナーの同族企業ではない。電力を近畿全域に供給するれっきとした公益企業だ。同族企業のワンマン経営者の公私混同は珍しくないが、公益企業をこれほど私物化した例は寡聞にして、筆者は知らない。

芦原と敵対する関西財界のドン・日向方齊

 関西財界の中心にある関西経済連合会の会長問題が関電の首脳人事と密接に絡んでいた。七代目会長の芦原義重(在任一九六六~七七年)を引きずり降ろし、八代目会長に就いたのが住友金属工業会長の日向方齊(同七七~八七年)だった。日向が会長になると、彼は関経連の中の芦原色を一掃した。

 それ以来、芦原と日向が、ことごとく対立することになる。小林は芦原を名誉会長に祭り上げたが、関電のドンには、とうとうなれなかった。内藤が立ちはだかったからだ。

 内藤に先制攻撃を仕掛けたのは小林だった。一九八六年九月、小林は芦原に「内藤を取締役から外すよう」に進言した。しかし、芦原は同意しなかった。それどころか、一九八六年暮れごろから、小林を関電本体から追い出そうという動きが強まった。

 芦原=内藤ラインは関西国際空港会社と西日本旅客鉄道会社(JR西日本)の会長のポストへ小林を転出させるよう工作した。内藤は小林を追い出すために東京で盛んに政治家に接触を繰り返していた。小林サイドによれば、芦原が関空会社に会長制を敷くように中曽根康弘首相にもちかけ、会長に小林を就任させる段取りをつけたのも内藤だった。

 それを知った小林は関電からテイよく追い出されると思って怒り、住友金属工業の日向方齊名誉会長を訪ね、「守ってくれる」よう頼んだという。芦原と犬猿の仲の日向に、小林は援軍を頼んだのだ。「敵の敵は味方」という憎しみの論理丸出しの対決となった。日向は二つ返事で引き受け、中曽根首相に電話をして、「関西国際空港には会長はいらない」との持論を滔々と述べたという。これで、関空会長に小林を送り込む人事は沙汰止みとなった。

 小林は関経連会長の座を狙っていた。日向の後任の九代関経連会長には宇野収・東洋紡績(現・東洋紡)会長(在任一九八七~九四年)が就くことに決まっていた。その次の椅子を獲得するためには、関電会長を続投していることが絶対の条件になる。これが、小林が関空とJR西日本の会長を引き受けなかった本当の理由だろう。一九八七年二月一七日、JR西日本会長には住友銀行の副頭取やアサヒビールの会長を務めた村井勉が決まった。

「もはやこれまで。総務を押さえられたらおしまいだ」

 ホッとしたのも束の間、その直後の二月二〇日、小林は、芦原から来期の人事を持ちかけられて、愕然とした。小林の腹心で株主総会など総務を担当していた宮崎勇専務を外し、内藤の息がかかっているといわれていた常務を後任に据えたらどうか、という案だった。宮崎には阪神道路公団副理事長のポストが用意されていた。宮崎は拒否し、芦原宅へ押しかけて猛然と抗議した。

<「もはやこれまで。総務担当はカナメの人事だ。これをおさえられたらおしまい」。切るか、切られるか。この芦原氏の提案が、小林氏を決起に駆りたてた>

 小林派の専務の宮崎、取締役の秋山喜久が解任動議に賛成するよう他の役員を説得するために走り回った。二月二六日、クーデターが決行された。取締役の大半の賛成で、小林は芦原と内藤の追放に成功した。高齢な芦原の黒子として人事を操っていた内藤に対する憎悪と恐怖心が、取締役たちをクーデターに同調させた。

 芦原=内藤の追い落としに成功したが、小林は悲願とした関経連会長には、とうとうなれなかった。小林はメディアに「私はこれで、もう関西経済団体連合会の会長はないでしょう」と本音を吐露している。織田信長の寝首を掻いた明智光秀という烙印を捺されたからだ。

 クーデター事件の原因は、芦原義重があまりに長きにわたって関電を支配した結果、溜まりに溜まった澱みが暴発したのである。関電の常勤の女子社員を、はっきりとした雇用契約もないままに、九年間にわたって芦原邸のお手伝いさんとして使っていた事実も後々、暴露されている。

 関電の二・二六事件で小林の腹心として暗躍したのが秋山喜久である。クーデターの成功の論功行賞で常務に昇進。専務、副社長と駆け上り、芦原の娘婿の森井の後任として一九九一年に社長の座を射止めた。因果は巡る小車のという言葉があるが、この後、小林と秋山は人事で対立することになる。

 一九九九年、秋山の後継人事で、小林は自らの系譜を継ぐ副社長の石川博志を社長に昇格させた。社長を八年務め、さらに実力会長として長期政権を狙った秋山は、小林の影響力の排除を画策して石川を在任わずか二年で退任させ、二〇〇一年に秘蔵っ子の藤洋作を社長に据えた。

 秋山は関電の最高実力者として、小林がなれなかった第一二代関経連会長(在任一九九九~二〇〇七年)の椅子に座った。秋山が関経連会長だった最中の二〇〇三年七月一二日、芦原義重は亡くなった。一〇二歳での大往生だった。芦原は八五歳まで、副社長以上が出席して毎月一回開かれる最高経営会議の座長を務めていたというのだから、驚き入る。

 長期政権の果ての人事抗争は、まさに関電の病理そのものだった。

(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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