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三浦展「繁華街の昔を歩く」

調布は理想的郊外住宅地4位だった…著名人たちの別荘地、想像できない上流階級の生活ぶり

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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 調布は4位入選だから記者がやってきて、町長、前町長、郵便局長、井上頭取らが取材に対応。多摩川の「はけ」(段丘)の上の鮎料理「玉華園」で接待をしたため、記者は「都に近き理想郷」「思い待たるる桜時」などという見出しで大いに調布の宣伝をしたようだ。

 多摩川は、江戸時代の『江戸名所図会』に武蔵野国の「第一の勝概(しょうがい・すぐれた景色)」と記された古くからの景勝地だった。1913(大正2)年、「京王電車」が開通すると多摩川沿いには鮎漁案内所や料亭、旅館などが立ち並ぶようになり、家族向けの水泳場や「京王閣」などのレジャー施設も整備され、多くの人々が訪れる行楽地となった。

 1914(大正3)年発行のガイドブック『調布案内』には先の「玉華園」のほか、「玉翠園」「塚善」「玉川亭」「水月亭」「新川亭」等の「鮎漁案内所」が記載されているという。人気投票のあった時代でも「はけ」の上から富士山が見えたろうし、「はけ」の下にはワサビの田んぼが広がっていたというから、いかに水がきれいだったかがわかる。

3.別荘地として有名だった

 1910年代というと関東大震災前だから、東京の人口が増えていたとはいえ、まだ調布のような郊外で人口が急増する時代ではない。理想的郊外とはいえ、住宅地というより別荘地としての需要が多かった。

 調布や神代の地価は19世紀末には畑1坪1円ほどだったが、1918〜19年頃には2円、1927年頃には3円に値上がりしていた。そういう時期に財界人、学者、文化人などが別荘を構えるようになったようである。

 別荘を構えた人の名前を例示すると、早稲田大学学長で当時の代表的経済学者だった天野為之が現在の布田4丁目あたりに土地を買った。鉱山経営者の田中銀之助が佐須町5丁目に買った別荘は、その後、彦根藩主直系の井伊直忠に受け継がれ、その建物の一部は晃華学園内で長く保存されていた(今はない)。

 飛田給2丁目には紀州田辺三万石の領主の子孫である安藤直雄男爵の別荘があった。これらの別荘は20世紀初頭にできたものらしい。

 別荘建設が本格化するのは昭和時代に入ってからで布田6丁目の桂公爵邸、その近くには新田義美男爵邸などができた。新田義美は貴族院議員だが、妻は俳人、高浜虚子の三女、姉は桂太郎首相の息子に嫁いだ。新田邸では、カーネーションの温室栽培が行われたほか、弓道場があり、舞踏会も開かれるなど、今からは想像もできない上流階級の暮らしが繰り広げられたという。

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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