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三浦展「繁華街の昔を歩く」

特殊飲食店がたち並ぶ赤線地帯だった東京・亀有を歩くのは、なんとも楽しい

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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新宿、衰退の理由

 旧街道を南下して突き当たると東に左折。道の南側に日枝神社がある。しばらく歩くと北に左折。ただしここで南に右折すると佐倉道である。水戸街道は水戸佐倉道といわれ、水戸道と佐倉道がここで分岐するのである。水戸道のほうをしばらく歩くと、今度は東に右折、という具合に旧水戸街道は四角を描いて曲がり続ける。このように曲がり道にしたのは、見通しを悪くして戦(いくさ)の時に敵が攻めづらいようにしたものである。角には寺や神社を配置して、いざというときはそこに隠れられるようにした。

 この新宿には花街や飯盛宿があったような雰囲気がない。おそらくそういう機能を亀有のほうに任せていたのではないかと私は勝手に推測しているが、どうだろう。

出所:http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-6-2-46.html

 このように栄えていた新宿なのに、今はあまり知る人はいないだろう。鉄道ができてから、商業などの中心はどうしても駅周辺に集中するからである。だから金町駅からも亀有駅からも遠い新宿なんて、住んでいなければ知らない、遠い場所だ。

 本当ならそういう宿場に鉄道を敷くべきだったかもしれないが、町民の一部が鉄道に反対して敷かれなかった。こういうことは明治時代にはどこでも見られた現象である。鉄道は、それまでの馬を使った輸送業者から見れば敵であり、また蒸気機関車が吐き出す煙や火の粉が嫌われたのである。

 だから新宿にも駅はできなかった。運輸の中心としての座は奪われ、参勤交代もなくなって、かつての宿場町は衰退したのである。

大学と街

 さて、この旧水戸街道を歩いて京成金町駅に近づくと、街道の幅は4メートルほどしかなくなる。この幅が街道の本来の幅だという。いくら旧街道でも、その後自動車に合わせて少しは拡幅されているが、この京成線の近くは幅が非常に狭い。その狭い街道沿いに居酒屋、焼鳥屋などがずらっと並んでいる。金町栄通りである。

 しかし、これらの店も10年ほど前までは開店休業のような店やシャッターを閉めた店が多かったという。そこに2013年、東京理科大学工学部が神楽坂から移転してきた。学生数4000人。また駅前のタワーマンションなど、駅周辺には新しいマンションが建ち、新住民が増えて、街道沿いだけでなく商店街が息を吹き返したのだそうだ。

 北千住も東京電機大学が駅のすぐそばに移転し、東京芸術大学の一部ができたりすることで若者が増え、かつ毎年新しい学生が入学してくるということで、街が人気を取り戻した。大学というものは街を再生する上でかなり大きな力を持つようである。

(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

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