マクドナルドとベネッセを破壊した原田泳幸氏、タピオカチェーン社長就任で汚名返上図る

マクドナルドの店舗

『似非(エセ)』というタイトルの本を企画し、書き出しているが、どこの出版社も腰が引けて、どこから出すかが決まらない。裁判なんか怖くないのに、出版社の経営者も幹部も、現場の編集者も、クレーマー化したエセ経営者のリアクションを極度に恐れている。『ほめ殺し』というタイトルでもいい。某出版社に出した企画書では、ZOZOを売り飛ばしてしまった前澤友作氏など8人程度を取り上げるつもりにしている。

 オールドタイマーとしては原田泳幸氏(71)だろう。タピオカティーで知られる台湾茶カフェ「ゴンチャ」を展開するゴンチャジャパン(東京都)の会長兼社長兼CEOに、12月1日付で原田氏が就任することになった。ゴンチャは2006年、台湾で創業。17の国と地域で1100店舗以上を展開している。日本では15年に1号店がオープンし、都市部に51店舗ある。日本法人のトップに原田を招き、タピオカを一時のブームに終わらせず、ブランドの確立を図る狙いがあるとされている。

 原田氏に筆者はすでに「経営者失格」の烙印を押している。彼がやってきたことを、拙著『プロ経営者の時代』(千倉書房)、『日本的経営は死んだ!非情な社長が「儲ける」会社をつくる』(さくら舎)でトレースしてみた。

「一番熱心な雇われ社長」

 1948年12月3日、長崎県立佐世保市出身。長崎県佐世保南高校、東海大学工学部通信工学科を卒業。72年、日本NCRに入社。80年に横河ヒューレット・パッカード、83年にシュルンベルジェ・グループ。90年、アップルコンピュータ・ジャパンのマーケティング部長に就任。95年、ハーバード・ビジネス・スクール修了。97年、アップルコンピュータ日本法人の社長兼米国アップルコンピュータ副社長となる。2004年、日本マクドナルドホールディングス(HD)社長兼CEOに就く。14年、ベネッセホールディングス会長兼社長およびベネッセコーポレーション社長に就任するが2年後の16年6月25日、引責辞任した。

 日本マクドナルドHDが2015年3月25日に開催した定時株主総会後、原田氏は会長を退任した。「プロ経営者」の代表とされる原田氏は、同社では有終の美を飾れなかった。2014年12月期連結決算は、本業の儲けを示す営業損益が67億円の赤字(その前の期は115億円の黒字)。営業赤字に転落するのは01年に上場して以来初めてのこと。売上高は前期比14.6%減の2223億円と大幅に落ち込んだ。最終損益は218億円の赤字(同51億円の黒字)。15年1月の既存店売上高は前年同月比38.6%減で、上場後最大の落ち込みとなった。年明けに全国各地で商品への異物混入が明らかになった影響から、客離れがさらに加速した。15年12月期の業績予想は、異物混入問題の影響を見通せないとの理由で「未定」とした。

 同社社長のサラ・カサノバ氏は決算会見で「信頼を取り戻すことが最優先」と話し、辞任の意思がないことを強調した。11年にわたり経営トップにあった原田氏が会長を引責辞任することでケジメをつけた格好だ。同社の底なし沼に沈むような業績悪化に、原田批判が噴出するのに時間はかからなかった。原田氏を「プロ経営者」ではなく「疫病神」と呼ぶ声が高まった。

 原田氏はこれに反発した。「プレジデント」(プレジデント社/2015年2月2日号)で、「疫病神批判に答えよう」と次のように反論している。

<現在のマクドナルドの不調について、一部のメディアが私だけに原因があったかのように報じていますが、違和感を覚えます。ハンバーガービジネスは非常にスピードが速い。多くのお客さまは衝動買いで、購買頻度が高い。今日気を許すと明日響く。今日しっかりやれば明日売り上げが伸びる。そういったビジネスです。米国本社から赴任してきたCOO(=カサノバ、筆者注)に実務を任せてからは約2年がたっています。その事実は理解してほしいと思います>

「答えよう」と大見得を切っておきながら、まったく回答になっていないのが、原田氏たるゆえんといえる。「疫病神」批判にはいたって低姿勢だったが、さすがにマクドナルドの業績の失速がかなりこたえたのだろう。原田氏は自分自身をこう規定している。<私は決して「プロ経営者」ではありません。プロはたくさんいます。私は「一番熱心な雇われ社長」です>。

アップルでの台頭

 原田氏はいかにして「プロ経営者」、いや「熱心な雇われ社長」になり得たのか。原田氏の4回目の就職先はアップルコンピュータ・ジャパン(当時)である。1990年、42歳でマーケティング部長として入社した。ビジネスマーケット事業部長、取締役マーケティング本部長と昇進を重ね、96年には米国本社に勤務して、世界市場を相手にマーケティングを担当した。97年、日本法人のアップルコンピュータ社長と米国本社の副社長を兼務した。時に49歳であった。

 日本法人の社長としての実績は、直販化の推進である。40社強あった一次卸を4社に絞り、3000店あった販売店を100店に削るという荒療治をやってのけた。天才的起業家として神話的存在となったスティーブ・ジョブズ氏が暫定CEOとして米アップルに復帰。98年にiMac(アイマック)を発売するタイミングに合わせて、原田氏は日本市場で、この荒療治を実行した。原田氏が経営者として最も輝き、自身が誇りにしているのが、アップルコンピュータの日本法人の社長時代だ。

 アップルでの剛腕を買われて、米マクドナルド本社にヘッドハンティングされた。どん底状態にあった日本マクドナルドの体質を根底からつくり変えるには、うってつけの人物と見込まれたのである。アップルの主力商品Macintosh(マッキントッシュ)とマクドナルドの愛称がともにマックだったことから、「マックからマックへの華麗な転身」と話題になった。

「今から新しいバスが出発する。新しいバスのチケットを買いたい人は乗れ。買いたくない人は乗らなくていい」。2004年5月、日本マクドナルドHDのCEOに就いた原田氏が、幹部を集めて発した第一声がこれである。自分が運転するバスに乗る者にはそれ相応の覚悟を求め、その覚悟がない者は去れという意思表示だった。

 日本にマクドナルドという米国のファストフード業態を輸入したのは藤田商店社長の藤田田氏である。1971年創業の日本マクドナルドは、31年間社長を務めた藤田氏が、ワンマン経営の拡張路線で外食大手の一角に飛躍した。2000年代初頭、「59円バーガー」を売り出し、過度に値下げし、その後、値上げするという価格政策のブレから客離れが進み、業績が悪化した。

 米国本社は、日本マクドナルドに原田氏を落下傘経営者として送り込んだ。同社に乗り込んだ原田氏は、藤田氏の経営体制を徹底的に破壊した。藤田マクドナルドは商品や意匠は米国流が、その経営スタイルは古き良き時代の日本企業そのものだった。大家族主義を貫き、なまじの日本企業よりも日本型経営を行った。藤田氏は、社員をビジネスパートナーとみなした。社員が将来、生活していけるように「独立支援制度」を取り入れた。現代版のれん分けである。その制度を活用して店長たちは独立して同社のFC(フランチャイズ)加盟店を経営するオーナーになった。社員の独立を同社の販路の拡大→増収につなげるという、一石二鳥のアイデアだ。

 同社は1991年から2003年にかけて、店舗数を900店から3900店に急拡大した。店舗数の7割が直営店で、残り3割のほとんどが元社員がオーナーのFC店だった。彼らは、一国一城の主に引き上げてくれた藤田氏の信奉者になった。原田氏が脱藤田路線を打ち出したとき、最大の抵抗勢力となったのが藤田氏の子飼いであるFC店オーナーたちだった。彼らは藤田氏の直参旗本と呼ばれた。「米国の手先、原田の横暴を許すな」。怪文書が乱れ飛ぶ、凄まじい内部抗争が繰り広げられた。

原田流の経営合理化策

 2007年3月、全国に3800店ある店舗の運営形態を徹底的に見直し、直営店7割、FC店3割の比率を5年後をメドに直営店3割、FC店7割に逆転させる方針を打ち出した。直営店だと人件費(もちろん残業手当もそうだ)やもろもろの出店コストは、すべて会社の経費となる。FC化することができれば、これらの諸経費はFC店のオーナーが負担することになる。

 それどころか原田氏はFC店のオーナーに、営業権や固定資産の買い取りを求めた。ロイヤリティや広告費も、売上高に応じて自動的に上納させる方式に改めた。既存の直営店をFCに転換させるスキームは利益を膨らませる妙案だった。コストをすべてFCに押し付けることができるからだ。その分、経営努力なしに利益が出る。原田流の経営合理化策である。

 この経営方針は店長ら現場を震撼させた。直営店がFC店に移行した場合、直営店の店長は強制的にFC店に出向させられた。FC店勤務から直営店に戻れる保証のない、片道切符の出向だった。直営店のFC転換に名を借りた大規模のリストラであり、“マック残酷物語”と呼ばれた。

 原田氏は10年2月9日、09年12月期の決算発表の席上、大規模閉店を発表した。向こう1年で全店舗の1割以上、433店を閉鎖する。閉店に伴う費用として営業利益の46%に相当する特別損失120億円を計上するという大出血を決断した。当期利益が大幅な減益になることを厭わなかった。意外な発表に会場はどよめいた。09年12月期決算では、全店売上高、営業利益、経常利益、当期利益はいずれも上場以来最高を記録していた。だから大規模閉店は業績低迷が理由ではない。大量閉鎖の真の狙いは、創業者の藤田氏の子飼いのFC店オーナーを一掃することにあった。

 06年には、FC店のオーナーを集めた会合で原田氏はこう告げた。「ブランドを棄損するようなFC店には辞めていただく」。原田氏は「新しい展開を進めるうえで、どうしても(この方針に)追随できない店は閉鎖する」と述べた。閉鎖の対象になる店は「負の資産」と名付けた、厨房が狭く全メニューを提供できない小型店舗である。藤田氏の子飼いのFC店は脱サラ組なので、どうしても小型店の零細経営者が多かった。

 原田氏は社長に就任して以来、6年間にわたり直参旗本との暗闘が続いたが、大規模閉店という大ナタを振るって、最大の抵抗勢力だった直参旗本を一気に淘汰したのである。原田氏は高校時代に水泳部で鍛えた体育会系の人間だ。週2回のウエートトレーニング、毎朝10キロのランニングを日課としてきた。東京マラソンには、11年から3回連続で参加し、ベストタイムは12年の4時間2分だ。強靭な意志と肉体で、抵抗勢力に立ち向かった。藤田時代の経営陣も次々とバスから降ろされた。原田時代に役員は3回転した。藤田時代の役員はすべて去り、原田氏がアップルから連れてきたメンバーも、まったく残っていない。

マクドナルドを去る

 14年3月、サラ・カサノバ氏が日本マクドナルドHD社長に就任し、原田氏は代表権のない会長になり、マックの経営の第一線を退いた。経営トップとしての10年間の取り組みはと問われた原田は「構造改革に尽きる」と語った。

 ワインコイン商品の先駆けとなる「100円マック」(05年4月発売)などの低価格で客を呼び込み、ボリュームのあるハンバーガー「メガマック」などの高価格メニューで利益を上げるという巧みな価格戦略で業績の回復に成功した。04年から8年連続で既存店売上高のプラスを達成し、“原田マジック”ともてはやされ、日本マクドナルドは「デフレの勝ち組」といわれた。だが、11年3月11日の東日本大震災を境に暗転する。震災後、消費者のニーズはあきらかに変わった。淹れたてコーヒーや軽食の充実で勢いをつけたコンビニエンスアに対し、日本マクドナルドは消費者のニーズを的確にとらえた戦略を描ききれなかった。

 現場の実情を勘案しない施策を、原田氏は打ち出した。待ち時間を短縮するため、12年10月からレジカウンターからメニュー表を撤去した。利用者のことは考えておらず、不便になっただけと悪評ふんぷんだった。13年1月には60秒以内に商品を提供できなければ、無料クーポンを渡すというキャンペーンを実施した。店員が制限時間に焦り、現場が混乱するだけに終わった。12年以降は完全に勢いを失った。同年12月期は営業減益に転じた。

 原田氏の“神通力”が薄れてきた理由ははっきりしている。仮想の敵をつくり、敵と戦うことで燃えるというのが原田氏の本質である。原田氏は、日本マクドナルドでは「社員が反対することばかりやってきた」と語っているが、FC店の大量閉鎖で抵抗勢力を淘汰したため、叩く目標がなくなった。FC店戦略が完了した時点で、原田氏の「一番熱心な雇われ社長」の任務は終わったといっても過言ではない。

「一将功成りて、万骨枯る」。原田氏の日本マクドナルドでの事跡は、この言葉に尽きる。マクドナルドの専制君主として絶頂期にあったとき、戦勝記念というべき『勝ち続ける経営 日本マクドナルド 原田泳幸の経営改革論』(朝日新聞出版)を著した。原田将軍の下で、多くの人材が朽ち果てたが、本書ではまったく触れられていない。

 マクドナルドの「らしさ」とは、何か。現場や顧客を大事にする「ピープルビジネス」だったはずだ。創業者の藤田氏は「ピープルビシネス」を徹底させた。地域に密着して、地元の幼稚園と連携して園児のバースデーパーティーをしたり、子どもたちにハンバーガーづくりを体験させたりして、「愛されるマック」に努めてきた。子どもの頃から親しみを持たせ、長い年月、家族と向き合い、その子どもたちが親になっても引き続きマクドナルドを家族ぐるみで利用してもらう。20年以上という長期の信頼関係を築くというビジネスモデルだった。

 だが、原田氏の流儀は、そんな息の長いビジネスには、そもそも向いていなかった。生き馬の目を抜くような、切った張ったの勝負を陣頭に立って遂行する経営スタイルが身上だ。高い株価(の維持)と短期的利益を最優先する米国仕込みの経営である。原田流の効率経営のもとでは、品質、サービス、清潔感、お値打ち感という現場力がないがしろにされた。その結果、マクドナルドは安かろう悪かろうのイメージを消費者に植え付けてしまった。「マックらしさ」を失ったことが、消費者のマック離れを引き起こした。

 マクドナルドの100円ハンバーガーは牛丼と並ぶデフレの代名詞だが、消え去る運命にあった。13年1月16日、福岡、佐賀の全店と熊本、大分、山口の一部の店舗の合計145店で、定番の100円バーガーを試験的に120円に値上げした。120円のチーズバーガーは150円に30円アップだ。値上げした場合の営業を検証するのが、今回の値上げの目的だ。05年にはじまった100円マックは“ワインコイン商品”の先駆けとなり、他のハンバーガーチェーンやコンビニに波及した。だが、デフレ下の勝ち組と評された日本マクドナルドも、消費者の節約志向を前に苦戦を強いられた。

ベネッセでの失策

 原田氏は14年6月21日、ベネッセHDの株主総会で取締役に選任され会長兼社長に就任した。その直後、子会社の通信教育大手、ベネッセコーポレーションの通信講座「進研ゼミ」の個人情報の漏洩事件が発覚した。流出した個人情報は2895万人分にのぼった。この事件では、原田氏の初期対応の稚拙さが目立った。流出を公表した7月9日の会見では、金銭的謝罪は考えていないことを強調するとともに、名指しこそ控えたものの、流出情報を利用した同業者のジャストシステムの経営陣の倫理観を問う発言を繰り返した。

 それから8日後の7月17日の会見では、「ベネッセは加害者か被害者か」と問われる事態となった。原田は「迷惑をおかけしたという意味では加害者と思っている」と答えた。金銭的補償の必要はないとしていたが、200億円の原資を用意して金銭補償する方針を表明するなど対応が揺れた。1人500円の金券を配布することで決着を図ろうとしたが、今度はあまりに金額が少なかったことから集団訴訟が起きた。

 原田氏がベネッセの創業者、福武總一郎最高顧問から招かれたのは、ベネッセがビジネスモデルの転換期を迎えていたからだ。ベネッセは中高生向け通信添削講座「進研ゼミ」を柱に成長を続けてきたが、13年から変調が起きた。2年あまりで会員数が40万人も減り、14年4月時点で365万人まで落ち込んだ。通信教育業界ではタブレット端末を利用した学習が人気を集めていた。学研エージェンシーの「学研iコース」、ジャストシステムの「スマイルゼミ」などは専用タブレットを使っていた。タブレット学習に小中高生が流れたことが、会員数の減少の一因となった。そこで原田が打ち出したのが、通信教育講座「進研ゼミ」に替わる新しいビジネスモデルづくりである。

 会員情報流出事件はベネッセHDの業績を痛打した。「進研ゼミ」など国内の通信教育講座の会員数は1年間に25%も減った。14年4月に365万人だった会員数は、14年7月の会員情報の流出を受け、10月に325万人に減少。情報管理の強化などで影響は薄らぐと思われたが、かき入れ時の新学期の商戦でも敗れ、とうとう15年4月の会員数は271万人にまで落ち込んだ。1年間で94万人減った勘定だ。

 その結果、15年3月期の連結最終損益は107億円の赤字(14年3月期は199億円の黒字)に転落した。通期の赤字は1995年の上場以来初めてのことだ。会員に金券を贈るなどした、お詫びの費用306億円を特別損失としたて計上したことも響いた。売上高は前期比0.7%減の4632億円、営業利益は18.4%減の292億円だった。

(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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