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日本郵政、混乱の元凶は菅官房長官だった…“影のトップ”鈴木副社長の子分が新トップ就任

文=編集部
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かんぽ生命不適切販売問題 経営トップが記者会見(写真:東洋経済/アフロ)

 今回の日本郵政グループのトップ人事は、菅義偉官房長官が主導した。持ち株会社、日本郵政の社長には増田寛也・元総務相が2020年1月6日付で就任する。菅氏が自ら社長に据えた長門正貢氏を切って、同じく首相官邸に極めて近い増田氏に首をすげ替えた。表紙は替わったが、中身は同じ。かんぽ生命の千田哲也・新社長はすんなり決まったが、日本郵便では土壇場で大逆転が起こったようだ。

「当初は、旧大蔵省出身の池田篤彦専務執行役の線だったが、高市早苗総務相に詰め腹を切らされた日本郵政上級副社長、鈴木康雄氏の部下だった衣川和秀専務執行役を強引に押し込んだ。いわば、鈴木氏の置きみやげだ。死んだふりをしていたが、鈴木氏は死んでいなかった。菅長官とホットラインがあるから、それを使ったのではないかといわれている。大逆転に日本郵政内では歓声が上がった」(事情通)

 19年12月20日、前総務事務次官の鈴木茂樹氏が、かんぽ生命保険の不正販売をめぐり、日本郵政グループに対する行政処分案を漏洩したことが発覚。高市総務相の査問に、あっさり「申し訳ない」と事実を認めたため、事実上解任された。情報漏洩の相手が元総務事務次官の鈴木康雄氏(1月5日付で退任)だった。鈴木康雄氏は日本郵政の社内の聞き取りに「そんなひどいことは、していない」と話した、長門社長が12月27日の退任記者会見で述べた。長門氏は「(鈴木氏が)ものすごい秘密を得ていたという感触はない」と強調したが、秘密の漏洩はいつから始まっていたのだろうか。

 19年12月27日付毎日新聞は、「26日の公明党の総務部会に出席した鈴木康雄・日本郵政上級副社長が、『(処分に関する)日程を聞いただけで、処分内容を教えてくれと頼んでいない』と述べ、自らの責任を否定した。部会は非公開で、出席者が明らかにした」と報じた。会員制情報誌「選択」(選択出版/2020年1月号)は「日本郵政のドン、鈴木康雄はどんな人物か――。ひと言でいえば、“根回しと恫喝”の官僚だった」としている。

 かんぽ不正を報道したNHKへの抗議を主導したのも鈴木氏。19年10月にはNHKの取材手法を「まるで暴力団」となじった。辞任会見で「暴力団」発言について再三問われた長門氏は最後になって、ようやく、「(暴力団という表現は)不適切だと感じている」と述べたが、明らかに証文の出し遅れである。鈴木氏は長門氏を「神輿(みこし)は軽いほうがいい」と評したことがあるが、日本郵政グループの本当のトップは長門氏ではなく鈴木氏だったということだ。

 第2次安倍政権で官房長官になった菅氏が、鈴木氏を日本郵政の副社長に送り込んだことは、周知の事実である。4代目社長の西室泰三氏(元東芝会長)が東芝の不祥事の渦中に体調を崩し入院していた時に、バトンを引き継いだのが当時、ゆうちょ銀行社長だった長門氏だった。この人事も官邸主導で行われた。

6、8、12のミステリー

 辞任会見で長門氏は「お国に貢献するどころか、迷惑をかけてしまい断腸の思いだ」と述べた。「お国」に謝る前に、郵便局を信用して生命保険を購入して騙された国民に謝罪すべきではなかったのか。この会見のハイライトは6、8、12の数字である。

「いつ辞任を決断したのか」との質問に長門氏は「8月の上旬には責任を取らなければならないと覚悟したが、調査や再発防止策などについて出す前に辞めるわけにいかないと思った」と語った。日本郵政幹部と総務省幹部は、「長門社長は2人を切って自分だけ生き残る道をずっと探っていた。つい最近まで総務省も『長門は留任(続投)』のシナリオだった」と語る。

 かんぽ生命社長の植平氏は「6月の末に報道されて以降、常に頭の中にあった。調査のメドが立ち退任の決断をした」と語った。辞任が確定していた植平氏は、早い段階で自分の首を洗っていたことになる。数字は6だ。

 興味深いのは横山・日本郵便社長の「顧客の不利益の解決をまずやってきた。12月くらいから辞任というけじめを意識した」という発言だ。数字は12である。年末まで辞める気はなかったということだ。

 郵便局長で構成する全国郵便局長会(全特)や自民党郵政族の多くは、「郵便局という現場を持つ日本郵便の社長だけは簡単に替えられない」と主張しつつ、「長門氏の後任に横山氏を昇格させる」策を秘かに練っていた。日本郵政の鈴木副社長への情報漏洩が発覚するまで、このシナリオは生きていた。だから12という数字をあげたのだ。横山氏は最後まで「郵便社長留任。あわよくば、日本郵政社長に昇格。グループのトップに立つ」ことを思い描いていたという声もある。

 郵政事業は2007年に民営化した。経営幹部の多くは官僚OB。日本郵政グループでは「生え抜き」と呼ばれているが、官僚の血が色濃く流れ、民間人ではない。民間金融機関出身の3人のトップは意思疎通もままならなかったが、そろって引責辞任に追い込まれた。

 建設省出身の増田氏をはじめ、官僚出身の3人の新トップに42万人の郵政グループの従業員の運命が託されることになる。「自らの経営力の不足」を最後の最後になって認めた長門氏が「(かんぽ不正販売の)全件調査は一人残らず、最後の一円になるまで必ず対応する」と誓っても、誰も信用しない。

 一方、ゆうちょ銀行の池田憲人社長は横浜銀行の出身。足利銀行(常陽銀行と経営統合して、めぶきフィナンシャルグループ)の頭取を務めた。「バンカーとしては優秀で、長門氏などとは人種が違う」と金融マンは評価している。

かんぽ生命のスキャンダルが表面化する前から辞意を漏らしていた」(ゆうちょ銀の関係者)

歴史の教訓をどう生かすのか

 日本郵政で坂篤郎(さか・あつお)社長が退任し、後任に東芝相談役で郵政民営化委員会委員長の西室氏が社長が据えられた時の混乱が憶い出される。日本郵政は安倍政権が発足する直前の12年12月20日、元大蔵省(現財務省)事務次官の斎藤次郎社長の後任として、大蔵官僚OBの坂副社長を社長に昇格させた。26日に安倍政権が発足する直前の駆け込み交代だった。

 政権移行期の人事にもかかわらず、自民党には何の説明もなかったため、自民党は激怒した。官房長官に内定していた菅義偉幹事長代行(当時)が「財務省出身者による、たらい回し人事だ」と批判した。安倍晋三首相も「官房長官の発言は内閣を代表したもの。当然、重たい」と追撃した。

 だが、後任社長の選考は難航した。安倍首相は民間からの起用を指示したが、日本郵政のトップの座が政争の具となったことから、経済人はそろって尻込みした。三菱東京UFJ銀行の畔柳信雄・元会長、野村證券の古賀信行会長といった金融界の重鎮は固辞した。現役の経営者や学識経験者も候補にあがったが消えた。結局、“財界引き受け屋”“勲章ハンター”と呼ばれる西室氏にお鉢が回った。

 西室氏は1996年~2005年まで東芝の社長・会長を務めた。日本経団連会長の座を狙ったが果せなかった。東芝相談役に退いた2005年、東京証券取引所会長に就任。10年に退任。当時、郵政民営化委員会委員長を務めていた。久々に日本郵政社長という表舞台に立ち意欲十分だったが、77歳と高齢。財界に人材が払底している内情をさらけだした。

郵政民営化

 日本郵政は発足当初から政治に翻弄されてきた。小泉純一郎内閣は郵政民営化を重要施策に掲げた。しかし、郵政3事業(郵便、貯金、簡易保険)の民営化は行政サービスの低下につながるとして激しい反対論が野党はもとより、与党である自民党内からも噴出。郵政民営化法案は衆議院で否決される事態となった。小泉首相は民営化の賛否を国民に問うとして衆議院を解散。郵政民営化に反対した自民党の国会議員の選挙区に刺客候補を送り込む“劇場型選挙”で自民党が圧勝。05年10月14日、郵政民営化関連法は可決・成立した。

 06年1月23日、民営化の企画・準備を行う会社として日本郵政株式会社が発足。初代社長に元三井住友銀行頭取の西川善文氏が就任した。元商船三井社長で日本郵政公社総裁の生田正治氏も意欲十分だったが外された。任期中に民営化の実現を望む小泉首相や竹中平蔵経済財政・金融・郵政民営化担当相(共に当時)と、経営者の立場から「体制の切り替えにはかなりの準備期間が必要」と主張する生田氏が対立。生田氏は日本郵政公社総裁を解任され、西川氏が郵政社長と公社総裁を兼務した。

 06年9月、郵政民営化を花道に小泉内閣は終わる。07年10月1日、日本郵政は郵便、貯金、簡易保険の各事業会社を傘下に持つ、持ち株会社の体制に移行した。だが、西川社長には逆風が吹きつけた。09年2月5日の衆議院予算委員会で、麻生太郎首相が「小泉純一郎首相(当時)の下、(郵政民営化には)賛成ではなかった」と発言し、与野党に波紋が広がった。麻生氏は郵政解散当時に日本郵政公社を所管する総務相だった。首相と所管する大臣の考えが違っていたことを、暴露したわけだ。

 鳩山邦夫総務相(当時)が「かんぽの宿」の一括売却問題を取り上げ、日本郵政の西川社長を追及し、郵政民営化見直しで麻生首相と歩調を揃えた。この時、小泉元首相が反撃に出た。09年2月12日、自民党本部で開かれた「郵政民営化を堅持し推進する集い」に出席。「最近の総理の発言について、怒るというより笑っちゃうくらい、ただただ、呆れている」と麻生首相を痛烈に批判。久しぶりに小泉節が炸裂した。

 小泉元首相を担ぎ出したのは、郵政民営化の立役者である竹中氏だった。役者が数段上の小泉氏の一喝に、麻生首相は腰砕け。日本郵政の西川社長の更迭を主張していた鳩山総務相を罷免した。

政権交代

 時代は移る。09年8月30日の衆院総選挙で、郵政民営化の抜本的な見直しを掲げた民主党、社民党、国民新党の3党が勝利して、同年9月、民主党連立政権が誕生した。郵政民営化に反対して自民党を離脱し、国民新党を結成した亀井静香氏が郵政・金融担当相に就任した。10月20日、鳩山由紀夫内閣は、郵政民営化の見直しを閣議決定。民営化推進派である西川社長は「政府と(考え方に)隔たりがある」として辞任した。

 亀井氏が後任社長に起用したのが元大蔵事務次官の斎藤次郎氏だった。この人事には、小沢一郎・民主党幹事長(当時)の強い意向が働いたとされている。斎藤氏は大蔵官僚時代に小沢氏と二人三脚で「国民福祉税」構想をぶち上げたことで知られていた。

 斎藤氏は小沢氏に近かったことから自民党に目の敵にされた。12年の衆院選で民主党が大敗し自民党政権に移行した。斎藤氏は自民・公明の新政権に、辞任を迫られる前に機先を制して日本郵政社長を退任。6月の株主総会まで任期はあったが13年1月に取締役も辞めている。

 バトンタッチしたのが大蔵省出身の坂篤郎氏だった。坂氏は小泉政権時代に内閣府の政策統括官、審議官として竹中平蔵・経済財政相の下に仕えた。竹中氏は「霞ヶ関の“害悪”は財務省支配にある」として、経済財政諮問会議を舞台に財務省の力を削いでいった。これに徹底的に抵抗したのが財務省の代表として内閣府に送り込まれていた坂氏だった。竹中氏と対立して農林漁業金融公庫副総裁に飛ばされた。冷や飯を食った後、内閣官房副長官補に返り咲いた。小泉氏の首相秘書官だった飯島勲氏(当時)が拾い上げたといわれている。

 この坂氏が09年10月に日本郵政副社長に就任。就任早々、竹中色が濃い役員たちを次々、郵政から追放。民営化推進派の幹部はパニックに襲われた。菅官房長官が坂社長の退任にこだわったのは、坂氏が郵政民営化見直し法の成立に向け、各党間の調整で中心的な役割を担ったからだ。民営化推進派は見直し論者の坂氏の続投を認めるわけにはいかなかったのである。

 この当時から、そして今も日本郵政の社長は政治力学で決まるものである。

(文=編集部)

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