フランス最高峰の理工系大学であるエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)に入学。さらに名門のエコール・デ・ミーヌ(国立高等鉱業学校)に進む。卒業生の多くは国家公務員となったが、ゴーンは別の道を歩む。1978年、仏大手タイヤメーカーのミシュランに入社した。名門校出身で博士号を持ちながら、会社からオファーされた中央研究所への配属を断り工場勤務を希望する。

 これはゴーンの「計算高さ」を示す最初のエピソードだ。「私は技術者としてタイヤの専門家になるためにミシュランに入るのではありません。もっと全体的な部分で会社に貢献するために、ミシュランに入りたいのです。そのために最もふさわしいのは製造部門だと思います。製造部門ではあらゆることが経験できます。製品について、工場で働く労働者や技術者のことについて、また経営についての知識を得られるのは製造部門だろうと思いますから・・・」。

 優秀の人材が集められる中央研究所を避け、エリートが配属されず競争が緩い生産現場で「目立つ」道を選んだのだ。このもくろみは見事当たる。ゴーンはわずか26歳で工場長に抜擢され、ミシュランの経営陣に目が留まる。「目立つ」ための方法は簡単だった。徹底的なコストダウンを図ったのだ。経費さえ節減すれば、利益は簡単に上がる。名門校出身で頭の回転が速いゴーンは、すぐに、このことに気付いたようだ。

 コストカッター、ゴーン経営の原点がここにある。30歳で故郷であるブラジル法人の最高執行責任者(COO)、35歳で北米法人の最高経営責任者(CEO)と、出世の階段を駆け上がる。コストダウンで短期間に黒字化したのが昇進の決め手になった、とされている。1996年、42歳の若さで、ゴーンはミシュランのトップ近くまで昇り詰めた。だが、同族経営で世襲制をとっているミシュランでは、それ以上の地位は望むべくもなかった。野心家のゴーンは、これに我慢できなかった。そんなとき、経営不振に陥っていたルノー会長のルイ・シュバイツアーがゴーンをナンバー2としてヘッドハンティングした。

日産行きを自ら希望

 ゴーンは1996年10月、仏ルノーに入社した。ルノーは1898年にフランス人技術者、ルイ・ルノーとその兄弟によって設立された自動車メーカー。1945年、第二次世界大戦後、シャルル・ド・ゴールの行政命令により国営化された。1996年、完全民営化されたが、だから筆頭株主はフランス政府なのである。民営化した年にゴーンはスカウトされ、ルノー入りを果たした。42歳の上席副社長として、ルノーでも徹底的なコスト削減を実施し、収益の回復に貢献した。ゴーンは、正式に「コストカッター」の異名を授けられた。

 さらなる転機は1998年。独ダイムラー・ベンツと米クライスラーの合併で、自動車業界は世界的再編に突き進んだ。ルノーは巨大な自動車メーカーに太刀打ちできない。他社との統合や提携を考える時が、とうとうやってきた。当時の日産は、世界中から再起不能と見なされていた。だが、ゴーンは提携相手として日産を本命と考えていた。1999年3月27日、ルノーと日産は資本提携した。ルノーはゴーンを日産に送り込んだ。

「シュバイツァー会長はある日、『送る人間は君しかいない』と私に告げた。ある程度予想はできていた。略歴を考えれば、企業再生や異文化の経験など条件がそろった幹部は私だけだった」、ゴーンは英語、フランス語、アラビア語、ポルトガル語を自在に操るマルチカルチャー(多文化)を体現した人物だ。さまざまな文化に囲まれて育ち、グローバルなレベルで会社再生の成功体験を持つ彼は、モノカルチャー(単一文化)のしがらみにとらわれることなく、日産の改革を白紙の状態から始めることができるとの自信が読み取れる。

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