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木村貴「経済で読み解く日本史」

平清盛、自由貿易を確立し国に経済的栄華…800年前の卓越したグローバル感覚

文=木村貴/経済ジャーナリスト
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 清盛は妻の弟、平時忠を検非違使(けびいし)別当として京を制圧しつつ、自分は摂津国(大阪府・兵庫県)福原に別荘を構え、大輪田泊(現神戸港の一部)の修築に力を注ぐ。宋の商船を瀬戸内海の奥深く、福原の足下まで迎え入れようとしたのである。福原は九州・瀬戸内航路の起点であり、宋や高麗(朝鮮)に通じる海の道への窓口だった。

 歴史家の網野善彦氏は、清盛の構想について「海を主要な基盤とする西国の独自な政権、西国国家樹立の夢にまでふくらむ可能性を、十分にはらんでいた」(『中世的世界とは何だろうか』)と述べている。

 実際、平氏は西国の海に強固な基盤を築いていた。清盛は肥後守を振り出しに、安芸守、播磨守、さらに前述のように、九州を統括する太宰府の実質上の長官、大弐となり、これらの地域に多くの拠点を築いた。博多湾では埋め立てにより「袖の湊」を建設している。また、安芸守在任中、瀬戸内海航路の要衝・宮島に鎮座する海神として、海賊たちの尊崇厚い厳島神社と強い信仰関係を結んだことは、瀬戸内海の支配の要を抑える意味があった。

 1170年、清盛は福原の別荘に後白河法皇を招き、宋からの商人と引き合わせる。古い観念にとらわれた貴族たちにとっては「天魔」の所行と映る暴挙だったが、清盛には宋の重要な港である明州(寧波)と福原の貿易を定期化しようとの狙いがあった。

 清盛は瀬戸内海への入口、門司を平氏の所領とし、音戸の瀬戸(広島県東部)を船が通れるように開掘するなど、着々と海の道の支配を推進。ついに大輪田泊にまで宋船を迎え入れることに成功する。その結果、陶磁器、絹織物、薬剤、書籍、文具といった唐物が大量に持ち込まれて倍以上の値段で売りさばかれ、清盛は大きな収益を手にした。一方、北方の周辺諸国と対立していた宋は、日本から刀剣や、火薬兵器の原料となる硫黄を輸入した。

 清盛は唐物を利用しておもだった貴族を籠絡し、政治力を磐石のものとする。「平家にあらずんば人にあらず」といわれる平氏の栄華は、自由な貿易がもたらす富と、それにいち早く着目した忠盛・清盛らの慧眼によって築かれたと言っていい。

自由貿易こそ国を富ませるカギ

 清盛のグローバルで柔軟な発想は、貨幣制度に関しても発揮された。当時、日本政府はお金を発行していない。流通していたのは宋から輸入された銅銭(宋銭)である。今で言うなら、国内で日本円ではなく人民元が流通していたようなものだ。

 高倉天皇は、右大臣の九条兼実に対し「輸入銭の使用は建前では日本の法に背くので禁じるべきであるが、その使用は現実に広まっている。模造銭以外は通用を許そうと思うがどうか」と諮問した。高倉天皇の皇后は清盛の娘であり、諮問の背後には清盛の意向があった。兼実は反対したが、結局は宋銭の使用が認められた。

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