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高橋篤史「経済禁忌録」

売上7兆円企業グループ・ロッテ、創業者の哀れな最期…息子同士が経営権争いで醜態晒す

文=高橋篤史/ジャーナリスト
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ロッテグループの創業者、重光武雄氏(写真:YONHAP NEWS/アフロ)

 ロッテグループの創業者、重光武雄氏が1月19日、韓国ソウルの病院で死去した。戸籍上とは異なるという実際の生年月日に従えば、享年98。日韓にまたがる巨大財閥を一代で築き上げたカリスマ経営者だったが、最晩年はじつに哀れなものだった。

 周知のように、4年前には韓国検察による劇場型捜査が大々的に行われた挙げ句、背任罪などに問われ、結果、有罪判決を受けた。折しも長男・宏之氏と次男・昭夫氏との間で骨肉の争いが繰り広げられている中での出来事。そんな主導権争いで重要な争点となったのは、武雄氏が認知症により当事者能力を失っているのか、それとも依然として正常な判断力を保っているのかという問題だった。思わずため息が出るような話だ。

 まずはお家騒動の経緯を簡単に振り返ってみよう。そこで実際、武雄氏はどのように振る舞っていたのか。

 日本側の経営を任されてきた長男・宏之氏を追放しようとの動きが水面下で始まったのは2014年秋のことだ。宏之氏肝いりの新規事業で数億円の損失が発生したことが大義名分とされた。先頭に立って動いたのは2009年から中継ぎ役としてロッテホールディングス(HD)の社長を任されていた旧住友銀行出身の佃孝之氏と、2013年に韓国のグループ会社からロッテHDの取締役に転じていた旧三和銀行出身の小林正元氏だった。

 そして2人の背後には韓国側の経営を任されていた次男・昭夫氏がいた。その昭夫氏に知恵をつけていたのは側近の李仁源氏(2016年8月に自殺)だったとされる。売上高で日本側をはるかに上回る韓国側だが、資本関係の頂点にある持ち株会社のロッテHDは宏之氏はじめ日本側がコントロールしていた。そこで昭夫氏を通じロッテHDの取締役会を押さえ、名実ともに韓国側が主導権を握ろうとの思惑があったともされる。

 裁判などにおける佃氏側の主張によれば、宏之氏追放の決め手となったのは、ほかでもない武雄氏による鶴の一声だったとされる。佃氏ら日本側幹部はソウルのロッテホテル34階に設えられた住居兼執務室に2011年以降陣取るようになった総括会長の武雄氏に対し、定期的に事業報告を行う慣例となっていた。

「宏之をくびにしろ!」

 2014年10月29日、佃氏と小林氏が損失問題を報告すると、武雄氏はそう発言したという。これを機に佃氏らは水面下で解任の段取りを進めることとなる。同年12月下旬、佃氏は根回しのため武雄氏の妻・ハツ子氏にこんなメモを渡している。

「総合的に判断してロッテのために総括会長が解任をご決断されたと理解しております。(中略)御奥様から宏之副会長に辞任をいただけますよう、お話いただければ幸いに存じます」

 この時点では武雄氏の発言は絶対的なものだった。それに対し、宏之氏は自ら辞任することなく抵抗を見せた。しかし結局、同年12月26日のロッテHD取締役会であえなく解任されることとなる。その日、ソウルの昭夫氏は電話で参加。肝心の武雄氏は欠席だった。この後、宏之氏はグループ会社の役職を次々と解任され、完全に追放の身となる。

宏之氏の巻き返し、そして復帰宣言

 とはいえ、そこから宏之氏は猛然と巻き返しを図った。それまで疎遠だった武雄氏のもとを何度も訪れ、翻意させることにとうとう成功する。2015年5月頃のことだったとされる。佃氏らによる誤った情報のせいで武雄氏が間違った判断をしてしまったというわけだ。

 同年7月3日、武雄氏は宏之氏や実弟が同席する下、佃氏と小林氏をロッテホテル34階に呼び寄せた。録音データによれば、こんなやりとりが交わされた。まずは冒頭の会話。

佃氏「ロッテ日本の社長の佃でございます」

武雄氏「どこにいるの、今?」

佃氏「私は東京におります」

武雄氏「東京に? 何をやっているの?」

佃氏「東京で社長をやらせて」

 どことなくぎこちない会話ではある。

 この後、やりとりは本題に入っていく。

武雄氏「あんた何年になるんだ?」

佃氏「6年になります」

武雄氏「ん?」

佃氏「6年でございます」

武雄氏「何年?」

佃氏「6年です」

武雄氏「今までね、僕はあなたのことを信用しておった」

佃氏「私も会長を尊敬しています」

武雄氏「こういう風にやっているのを見るとね、とんでもないと思った」

佃氏「しかし会長、それは」

武雄氏「言い訳するなというんだ! なぜこんなことやるんだ!」

佃氏「これは、誰もおらないから、まず私がやるようにというご指示でございました」

武雄氏「社長(筆者注:武雄氏のこと)が耄碌しているから何をやってもいいと思ったんだろ」

佃氏「そんなこと私はゆめゆめありません。もし会長がそんな風に思ったのなら」

武雄氏「もういいそれ。言い訳はいいから。ただ僕はあなたと喧嘩したくないの。だからとにかく今日を限りに辞めてちょうだい」

佃氏「わかりました。はい。わかりました。残念でございますが」

武雄氏「僕はあんたのその年齢とか、色んな前例からいっても信頼できると思った」

 この後、いくつかのやりとりの後、佃氏は退室する。

武雄氏「あとはあんたの退職金もやりますから、黙って辞めなさいよ」

佃氏「はい」

武雄氏「いいです、それで」

佃氏「承知しました。長い間お世話になりました。ありがとうございました」

 冒頭のようなぎこちなさはなくなり、武雄氏が決然とした態度で佃氏に対し解任を通告した様子が伝わってくる。

 この5日後、武雄氏は昭夫氏をロッテホテル34階に呼び出した。やはり宏之氏も同席した。昭夫氏が入室すると怒号が飛んだ。

武雄氏「座れ!」

昭夫氏「はい」

武雄氏「バカ野郎!」

 武雄氏は韓国ロッテが進めた中国事業における巨額損失を責め立てるなどした後、佃氏の処遇も含め昭夫氏をこう諭している。

武雄氏「とにかくね、昭夫、いいかい、お父さん言うけど、お前も変な考え持ったら、お前もすぐに辞めさせるからな」

昭夫氏「はい、ええ」

武雄氏「お前はロッテを全部、そういう才能を持ってない。わかっているから」

昭夫氏「わかっています。ええ」

武雄氏「お父さんのロッテグループをね、引っ張っていく人間の後任者が、外部のほうから、ん。お前に全部任してはできないわ」

昭夫氏「はい」

武雄氏「お前ひとりのためにロッテグループ全部を悪くするわけにはいかない」

昭夫氏「そうですね、はい」

武雄氏「弟のためだけじゃなくて当然ロッテグループ全体を考えてやる人じゃないとだめなんだ」

昭夫氏「ええ、そうですね」

武雄氏「それがお前、人を使っていろんなことをして。絶対に許さないよ」

昭夫氏「ええ、一応、佃さんについては先週お父さんからそういうあれがありましたので」

武雄氏「何?」

昭夫氏「佃社長についてはそういう話がありましたけれども、株主総会の1週間後で辞めさせるというのも、ちょっと対銀行とかで問題あるかなと思いまして」

 そのように言う昭夫氏に対し武雄氏は念を押した。

武雄氏「お前そういう人間と一緒にやっているようじゃ、お前も辞めなくちゃならない」

昭夫氏「一応7月末か8月末くらいで佃氏は退任というふうに考えていたんですけれども」

 最後、煮え切らない昭夫氏に対し武雄氏はこう強く言った。

武雄氏「いいね。俺が言ったこと」

昭夫氏「はい、大変誤解がありまして申し訳ありませんでした」

武雄氏「お前、俺が言ったこと覚えとけよ。お前また裏でやったらすぐにお前ほっぽり出すからな」

昭夫氏「わかりました」

 だが、佃氏は辞任しなかった。業を煮やした武雄氏は宏之氏を帯同し2週間あまり後の7月27日、プライベートジェットでソウルを発ち、東京・新宿のロッテ本社に乗り込んだ。そして佃氏と対峙した。

武雄氏「どっちにしてもね。辞めなさいと言ったんだよ、僕が」

佃氏「そのことは承知しています。はい、承知しています」

武雄氏「そうですね。それがあんたまだ来て、働くのが、それは」

佃氏「会長、すいません。私、偉そうに言わせてください。私、私のためではなく、ロッテという、会長が」

武雄氏「会社のためにか?」

佃氏「はい」

武雄氏「会長の指示に反しても?」

佃氏「はい、これは最初に会長にいただいたお言葉を忠実に守っているつもりです。ですから、タイミングを考えさせてください」

武雄氏「守るんなら、お辞めなさいと言われれば辞めるべきではないのか」

佃氏「それは尊重しています。会長から言われてるお言葉は尊重していますが、時期です」

 ここで佃氏側の弁護士が割って入った。この後、佃氏は小林氏ら役員陣とともに会議室に閉じ籠もった。武雄氏と宏之氏は人事部長に対し、佃氏らの解職と新たに4人の執行役員の任命を発令するよう指示、それは社内のイントラネットで開示された。夕方、社員食堂に集められた約300人の社員を前に、武雄氏を後ろ盾とする宏之氏が復帰を宣言、新社長としての訓示を行った。

武雄氏の認知症を争点に骨肉の争い

 ところが翌日、昭夫氏や佃氏らが主導する取締役会は武雄氏の代表権を剥奪。前日に発表された宏之氏の復帰人事も幻となった。この後、昭夫氏らはロッテHDの筆頭株主となっている従業員持株会や関係会社などを通じ支配権を確立することとなる。一方で宏之氏は重光一族の資産管理会社を掌握したものの、ロッテHDの議決権のうち約34%しか保有しておらず、情況をひっくり返すことができない。

 そんな中、昭夫氏側は宏之氏のバックにいる武雄氏の威光を削ぐことで骨肉の争いを有利に進めようとの作戦に出る。その切り札が武雄氏に対する成年後見の審判請求だった。要は、高齢の武雄氏にはもはや正常な判断力が失われているというわけだ。昭夫氏側が韓国在住の叔母を請求人に立ててソウルの家庭法院に申し立てを行ったのは、本社での騒動から5カ月後の12月18日のことだった。申立書は武雄氏が2009年頃から認知症を患っているとしていた。関係者によると、請求人側は認知症検査を行う病院の選定にも介入しようとしていたようだ。

 それに加え、昭夫氏側は骨肉の争いに絡む裁判などで武雄氏にもはや正常な判断力がないとの主張をことあるごとに展開していくようになる。例えば、2017年1月に東京地裁で行われた証人尋問において佃氏は宣誓の上、武雄氏の様子をこのように証言している。

「従来お目にかかっておりましたとき、お年相応のご記憶忘れのようなものはございましたけれども、(2015年)7月3日はまことに異常でございました。定例の報告を始めようと思ったんでございますが、表情等、まったく平素とは違いまして、目がつり上がり、お顔が真っ赤になっており、通常とは思えませんでした。というのも、通常と違いまして、その場には宏之氏並びにその姻戚兄弟がおりまして、車椅子の会長の脇で私に向かって、この人は悪い人、この人は悪い人と韓国語で叫び続けておりました。私がご報告しようとしましても、過去の私の経営に対して誹謗を、激しい誹謗をするだけで、すべて原告(=武雄氏)の了承を得てやってることでございましたけれども、まったく聞く耳を持たず、また、書類にてご説明しようと思っても破らんばかりの暴挙でございました。このときをもって、会長には通常のご判断能力がもうないというふうに判断した次第でございます」

 7月3日の面談とは、先述したとおり、武雄氏が佃氏に対し解任を申し渡した日のことである。佃氏としては、宏之氏の解任を指示された2014年秋の武雄氏は正常な判断力を持っていたが、1年近く経った2015年夏にはそれが跡形も亡く失われていたということらしい。ただ、先述したように2015年夏のやりとりについては、確かにぎこちなく感じられる箇所があるものの、正常な判断力が失われていたとまでは考えにくい。要は自分の都合がいいように武雄氏の判断力を論じているにすぎない。

 もっとも、都合のいい解釈はロッテHDに対する株主提案のたびに武雄氏を取締役候補に含めていた宏之氏側にも一部当てはまる。高齢の武雄氏に記憶力などの衰えがあったことは間違いなく、もはや経営の一線から退くべき人物だったと見なさざるを得ないからだ。

後継体制の確立に失敗したカリスマ経営者

 韓国における後見審判に話を戻せば、翌2016年8月、ソウル家庭法院は武雄氏の限定後見を決定している。ただ、これに対抗して宏之氏は同年12月に任意後見への切り替えを申し立てた。言ってみれば、後見手続きを自らが有利に運ぼうとの綱引きが行われたわけだ。結局のところ、武雄氏の認知症がいつ頃からどの程度進んでいたかの正確な医学的事実関係はよくわからない。

 武雄氏がロッテHDで再任されず、グループ会社すべての取締役から外れたのは2017年6月のことだった。そして2年半余りが経った今年1月、ついに永眠した。

 カリスマ経営者は自らの手で後継体制を整えることができず、引き際を見定めることもできなかった。売上高が約7兆円に上る巨大企業グループでありながら前近代的なコーポレートガバナンスがずるずると続いた。そして、それが巨大財閥の承継をめぐる息子同士の対立や、さらに2人の夫人と腹違いの娘たち、そして親戚をも二分する骨肉の争いの原因となり、最後は自身の恥をさらすような後見手続きをめぐる騒動に発展した。自らが蒔いた種とはいえ、これを悲劇と言わずしてなんと言い表せばいいのだろうか。

(文=高橋篤史/ジャーナリスト)

高橋篤史/ジャーナリスト

高橋篤史/ジャーナリスト

1968年生まれ。日刊工業新聞社、東洋経済新報社を経て2009年からフリーランスのジャーナリスト。著書に、新潮ドキュメント賞候補となった『凋落 木村剛と大島健伸』(東洋経済新報社)や『創価学会秘史』(講談社)などがある。

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