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木村貴「経済で読み解く日本史」

平安時代、なぜ日本の辺境「平泉」は世界史に大きな影響を与えたのか?海を渡った金

文=木村貴/経済ジャーナリスト
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 金は奥州の特産だった。奥州の金は、8世紀に奈良の大仏を建立する際、初めて発見されたといわれる。砂金は高価で持ち運びに便利なことから増賜用、貿易用として珍重され、膨大な量が京都や海外に向けて流れ続ける。平安貴族は黄金で購入した唐物(舶来品)で身の回りをきらびやかに飾り、黄金の備蓄と使用をステータスとした。日宋貿易を重視する平氏が覇権を握ると、金は上層武家の間でも重宝される。

 清衡が平泉に居を構えてから33年の間に、延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺など日本を代表する大寺院で、寺ごとに「千僧供養」を挙行した。千僧供養とは千人の僧を集めた大規模な法要である。千人の僧に対する布施だけでも砂金千両が必要とされ、それだけでも大変な出費だ。

 しかも驚くことに、清衡が千僧供養を開いたのは日本国内だけではなかった。中国・宋の明州(寧波)郊外に位置する天台山国清寺でも開催させた。国清寺は清衡の時代、東アジアにおける仏教の総本山ともいうべき地位にあり、日本の僧侶や信者の参詣先になっていた。

 明州は当時、宋最大の貿易港の一つ。日宋貿易の窓口にもなっていた。明州からは多くの商人が博多に訪れ、唐坊と呼ばれるチャイナタウンを形づくる。さらに博多から瀬戸内海、太平洋沿岸を経由し、北上川をさかのぼって平泉に到達する交易のルートがあった。

 中国から平泉にもたらされた代表的な品は、磁器だった。なかでも人気が高かったのは、白磁と呼ばれる純白の磁器である。平泉の遺跡からは、とくに高級な白磁の壺などが多く出土している。藤原氏が宴会儀礼で人々を魅了するための「威信財」として入手したとみられる。

 ただし、中国から輸入する白磁だけでは、平泉の旺盛な需要を満たすことができない。そこで輸入品のコピーとして東海地方で渥美焼、常滑焼が製作され、はるばる平泉まで運ばれた。渥美焼については、職人を平泉に招き寄せ、製作にあたらせることさえあったという。

中央集権的な古代国家に大きな転機

 古くから、交易のルートは同時に文化伝達のルートでもある。藤原氏は宋との交易ルートを通じ、当時の東アジアのグローバルスタンダードである仏教を直接学び、取り入れたのである。たとえば中尊寺に納められた仏教聖典の集大成「宋版一切経」は、砂金10万5000両と引き換えに宋から輸入されたとされる。

 一方、明州から平泉へのルートを逆にたどって、白磁など舶来品の見返りとして宋にもたらされたのが、奥州の黄金だった。中国では金の産地が雲南などに限られ、高価だった。当時、日本では金が銀の4倍の値段で取引されたのに対し、中国では約7倍だったという。大きな差益が得られる金貿易は宋の商人にとって魅力的だった。

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23:30更新
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