創価王国の“天皇”・池田大作名誉会長

 第4代・北条氏、第5代・秋谷氏、第6代・原田氏まで、各代の会長自身が「池田先生の弟子」と位置づけている。これらの会長たちは、組織のライン職から退いた名誉会長の池田氏を「先生」と呼び、自らを会員たちに「秋谷先生」「原田先生」と呼ばせることは決してなかった。先生、すなわち師匠とは、学会にとって池田氏のみだからである。

 こうした学会の会長職を、その実権が目に見えない様子を皮肉って「雇われマダム」と称する人がいるくらいだ。

 今、学会では池田氏を「永遠の師匠」とし、その神格化が加速している。元学会員のひとりは、その様子をこう話す。

「まるで戦前の時代、その頃の天皇は、こういう感じなのだろうなと思う」

 元学会員によると、学会での会合時、何か意見を通そうとするならば、「池田先生が」と言えば、その場の空気がピリッと変わるという。確かに戦前・戦中に「陛下が」と言えば、軍人が直立不動の姿勢を取っていたといわれており、それを彷彿とさせる。時に「国内国家」といわれ、「創価王国」とも呼ばれる学会内部の空気感が伝わってくるようだ。

創価学会のエリート養成機関、創価大学

 その池田氏が創立したのが創価大学だ。1971年に開学した同大は、会員たちの間で「創大」もしくは「S大」の略称で知られる。この創価大や「学園」と呼ばれる東京と大阪にある小学校から高校までの姉妹校出身者は、学会のなかでも一目置かれる存在だ。

 会員として真面目に活動している限り、“S大出”は学会の将来の地方幹部要員として遇されるという。全国に約300人程度いるという副会長の地位や、手厚い支持基盤に守られて地方政界への出馬、地方議員の地位も夢ではないそうだ。前出の元学会員は、その実情を次のように語る。

「普通の会員は、名誉会長のことを『池田先生』と呼びます。しかし、創大出や学園出の会員は『創立者』と呼ぶのです」

 創価学会の会合時、この「創立者」という言葉を用いる会員がいれば、周囲は「この人は創価大か学園の出身」であることがわかるのだという。学会のなかで創価大卒業生とは、「池田先生が創られた学び舎」で学んだ“池田先生の直弟子”であり、“学会の東大”ともいうべき大学を出たエリートだ。なかには、「池田名誉会長のことを創立者と呼びたいから、創価大へ入学した」という人もいるそうだ。前出の元学会員が続けて語る。

「たとえば、地方の高校や大学を出た幹部を相手に若いS大出身者が『創立者が……』と発言したとして、幹部がその言葉に従わなければ池田先生に盾突くのと同じだと捉える人もいるくらいです。それだけの威厳があります」

 このS大出のうち、東京にある創価高校、または大阪にある関西創価高校卒業であれば、会員たちの間では、「純粋培養組のエリート」として一目も二目も置かれるという。小・中学校も東京か関西の創価学園、すなわち「創価の名がつく学び舎」卒業であれば、なおさらだ。

 ただ、同じ学園生でも、「関西校」を「東京校」に比べて一段格下にみる人もいるという。それでもS大の学生や卒業生、ひいては学会に籍を置く人たちの間では、地元の高校、それもその地域ではナンバーワンスクールと呼ばれる公立の進学校や有名私学出身者よりも、はるか上の位置づけであることは言うまでもない。

 このあたりも、旧陸軍将校と同じく、陸軍幼年学校(現在の高校に相当する軍の学校)から陸軍士官学校(同じく現在の大学に相当する軍の学校)に入学した者がエリートとして遇され、幼年学校を経ず、旧制中学(現在の高校)から士官学校に入学した者は、格下に甘んじ、その後の軍人人生も“外様扱い”され続けたのと似ている。

 もっとも、その幼年学校も全国にいくつかあったが、特に「東京陸軍幼年学校」出身者が幅を利かせていたといわれる。同じく令和の時代の創価学会でも、東京の創価学園から創価大を出た者が、内部では「キャリア組」と見なされるようだ。

 学会内部でも、創価学会本部職員として採用される者は、法人職員としての立場と学会員としてのそれを併せ持ち、学会員としての役職はほかの学会員と比べ、それこそ旧軍の士官学校卒のエリート青年将校並みにスピード出世を果たすという。

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