景気高揚策を「訪日観光客」に頼る危険
新型コロナパニックは、この国に潜んでいたさまざまな弱点や欠陥を露わにしていた。
まずは、政府が唱える「水際対策」の脆さだ。新型コロナウイルスを中国・武漢から日本国内に持ち込んだ観光客のなかには、発熱や咳などの自覚症状はあったものの、市販の解熱剤を飲んだら症状が緩和したので来日したという人がいた。空港の検疫所では「水際対策」として、37.5度以上の発熱を検知するサーモグラフィーを使って入国者を調べていた。しかし、解熱剤を飲んでいた新型コロナウイルス感染者は、サーモグラフィーによる検疫に引っかからず、素通りしてしまっていたのだ。つまり、解熱剤はサーモグラフィーを無効化する。
中国国内での感染拡大時期が春節の休みと重なり、普段以上に訪日観光客が多かったことも災いしているのだろう。「水際対策」が脆いままである限り、いくら国内で患者の封じ込め策が功を奏したとしても、新型コロナウイルスは訪日観光客に紛れ、繰り返しやってくる。春節に次ぐ訪日観光客ラッシュは、今夏に控える一大イベント・東京五輪あたりだろうか。となると、日本が次の感染ピークを迎えるのは、東京五輪の開催時か、その直後かもしれない。
ところで、外国人の訪日旅行(インバウンド)の増加を目指す日本政府のキャンペーン「ビジット・ジャパン」政策がスタートしたのは、中国南部の広東省を起源としたSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行した2003年のことだ。この年の訪日中国人観光客数は44万人だったのが、2018年にはその20倍近い838万人にまで激増。その一部が感染していただけで、このたびの新型コロナウイルス禍が我が国へともたらされる結果と相成った。
何も日本に限らず、インバウンドに多くを期待し、観光立国を標榜している国々では、同様の事態が今後も繰り返し発生する可能性がある。観光立国ならではの弱点であり、いわば負の宿命とも言えるだろう。商売でグローバル化を進めれば、感染症の流入を避けられないのは自明の理、なのである。
備えあれば、憂いなし……だったのに!
3月7日付東京新聞朝刊が報じていたが、安倍政権は観光を成長戦略の柱に位置付け、訪日外国人が増加したことを盛んにアピールする一方で、感染症対策の要である国立感染症研究所(感染研)の新規採用を抑制し、研究費も毎年削減を要求していたのだという。つまりは感染症対策を軽視していた。
今でこそ、安倍政権は感染研を重用し、政府の専門家会議でも感染研の脇田隆字所長が座長を務めている。感染研の前身は国立予防衛生研究所(予研)。血液製剤を介して血友病患者にエイズ感染を広げた1980年代の「薬害エイズ」事件の際、海外から輸入される血液製剤に危険があるとの情報を掴んでいながら、当時の予研は看板に掲げた「予防衛生」の役目をなんら果たせず、看板倒れとの批判を浴びていた。
看板を掛けかえた感染研は今回、汚名を返上し、名誉を挽回できるのか。大いに期待がかかるところである。そのためにも、研究者の数を増やすことをはじめとする感染症研究体制の増強と、研究費の確保が望まれる。ただ、その成果が上がるのは数年先の話であり、現在の「新型コロナウイルス対策」にはとても間に合いそうにない。いつ新たな“殺人感染症”が現れるかわからないのであれば、平時から備えておくほかなかったのである。
9年前の東京電力・福島第一原発事故の時と同様、政府や専門家でさえ事態をコントロールできないことが明らかになった時、国民の間でパニックが発生する。マスクから納豆に至るまでの買いだめ騒ぎが起きるのも、元はと言えば備えを怠った政府の責任によるところが大きい。
今回の新型コロナウイルス禍に懲りて、我が国の感染症対策は、ましなものへと変わっていくのだろう。貧弱なウイルスの検査体制や、脆さを露呈した「水際対策」にしても、多少は改善していくと思われる。
ただ、感染が収まった時、我が国の経済や文化、芸術、興行、スポーツ、観光等の各業界がどれほどダメージを受けているのか。存続が危ぶまれるようなことはないのか。想像するのも恐ろしいぐらいである。「振り返ってみると、安倍政権は亡国の政権だった」と言われぬよう、健闘を祈る。首相官邸が率先して浮足立っていることが明らかになった今、過度な期待などしてはいないけど。
「差別」が感染を水面下で広げる恐れも
身もふたもない言い方をしてしまえば、新型コロナウイルス感染症とは「新型の風邪」にすぎない。余談だが、日本で新型コロナウイルス肺炎患者が確認され始めた頃、患者が発生した地域や医療機関の周辺で、患者や医療従事者を露骨に蔑視・差別し、「ばい菌」呼ばわりする言動が聞かれた。実は、筆者の実母が世話になる予定だった老健施設の周辺でも、そうした声を耳にしている。
だが、感染者や病気を蔑視したり敵視したりしたところで、感染が防げるわけでもない。しかも、誰もが「明日は我が身」となりえる。それに、感染者や肺炎患者が全国各地で発生するに至って、今では日本の国が丸ごと蔑視される立場となった。海外では、日本人だというだけで「コロナ」呼ばわりされる人もいるという。「ばい菌」呼ばわりしていた人が海外に行けば、今度はその人が「コロナ」呼ばわりされる番なのだ。
感染症にまつわる差別や蔑視の問題は、政府や専門家、感染研がいくら奮闘したところで、解決は困難である。ハンセン病患者やその家族に対する差別の問題に世間の注目が集まり、解決策が打ち出されるまでに数十年もの年月がかかっていることを思うと、途方に暮れるばかりだ。今回の新型コロナウイルス禍でも、感染した患者に対するいじめや差別がはびこり、検査を受けるのをためらう人が続出するような風潮が生まれれば、患者の把握も困難になり、かえって感染が水面下で拡散し続けてしまうことにもなりかねない。
ハンセン病の差別撤廃に関する国連特別報告者のアリス・クルス氏が、調査を終えて2月19日、東京都内で記者会見した際、こう語ったのだという(2月20日付朝日新聞デジタル記事より)。
「公衆衛生政策は社会を守るためのものであっても、個々人の人権を侵害してはならない」
胸に刻みたい言葉である。
(文=明石昇二郎/ルポライター)