細川たかしの“厚意”で安寿ミラの卒業公演が…宝塚歌劇と太平洋戦争、そして二度の震災の画像1
COVID-19の影響で退団日が白紙に戻った、雪組トップスター・望海風斗。(写真は、2020年2月東京宝塚劇場公演『ワンスアポンアタイム イン アメリカ』のパンフレット表紙。同公演もCOVID-19の影響で東京公演のほとんどが休演になった)

 2019年末に発症が確認されて以来、全世界で猛威をふるい続けている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。COVID-19の影響で宝塚歌劇団も他の舞台やイベントなどと同様、公演中止の措置をとっており、2020年4月13日現在、6月末までのすべての公演を中止とする方針である。宝塚グッズを扱う公式ショップ「キャトルレーヴ」も、多くの店舗が6月30日まで休業する予定になった。そして特筆すべき影響は、すでに発表になっているトップスターたちの退団日がいったん白紙になり、リスケジュールされる措置が取られたことだろう(新しい退団日は4月13日時点未定)。

 阪神・淡路大震災でサヨナラ公演が中断させられた安寿ミラ(詳細は後述)の退団日変更を除けば、いったん発表した人事が変更になることは宝塚の歴史において異例中の異例である。早いところでは10月11日に雪組トップスターの望海風斗が退団予定だったため、COVID-19の影響で公演ができないまま退団になってしまうのでは……とファンの間では不安が吹き荒れていたが、そうはならないことが正式に決まったことで、腹を据えてCOVID-19と向き合おうと思わせてくれたことはありがたい。

 長い歴史を持つ宝塚はこれまでも、その時々の社会状況によってさまざまな影響を受けてきた。宝塚歌劇団の前身である宝塚唱歌隊が結成されたのが1913(大正2)年であるから、まず大きな影響を受けたのは二度の大戦……わけても、日本みずからが戦争の当事国となった第二次世界大戦、太平洋戦争ということになろう。

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「白薔薇のプリンス」と呼ばれた春日野八千代。2012年に亡くなるまで、宝塚歌劇団の現役団員であり続けた。(写真はWikipediaより)

細川たかしの“厚意”で安寿ミラの卒業公演を執り行う

 宝塚の歴史をひもとくと、1934(昭和9)年ごろから戦争を意識した演目が始まり、1940(昭和15)年には横文字タイトルの公演がいっさいなくなる。戦中最後の宝塚大劇場での公演は1944年3月で、「白薔薇のプリンス」と呼ばれた当時の大スター・春日野八千代主演の雪組公演『櫻井の駅』(演出:堀正旗)/『勧進帳』(演出:水田茂)/『翼の決戦』(演出:高木史朗)』である。同年2月に国民向けの「決戦非常措置要綱」が東条英機内閣下で閣議決定され、宝塚大劇場と東京宝塚劇場の閉鎖が決まったからだった。

 春日野八千代は2012年に亡くなるまで宝塚に在籍した伝説の男役であるが、戦中当時もトップスターとして人気絶頂期。突然の大劇場閉鎖のニュースにファンはどよめき、公演最終日には劇場から近くの宝塚大橋を超えて隣駅である宝塚南口駅まで当日券を求める列ができたとのエピソードが残されている。終演後もファンが劇場を立ち去ろうとはせず、警官隊が出動するほどの騒ぎになったとか。

 当時、歌劇団の生徒たちは、慰問公演で国内各地はもとより、満州、樺太などにまで赴くことになる。こうした第二次世界大戦中の宝塚歌劇団の様子は、『愛と青春の宝塚~恋よりも生命よりも~』(脚本:大石静)というテレビドラマ(2002年、フジテレビ系)および舞台(2008年、新宿コマ劇場ほか)にてつまびらかに描写されている。決して華やかではないモンペ姿でも、たくましくあきらめないタカラジェンヌの生きざまに勇気づけられる。

 公演中止にまでいたった続いての大きな出来事としては、1995年1月17日の阪神・淡路大震災が挙げられよう。まさに被災地の一部となった宝塚大劇場はその2年前に新築されたばかりであったが、スプリンクラーが作動し劇場は水浸しになり、衣装を保管していた倉庫も水浸しになるなど壊滅的な被害を受けた。震災当日、宝塚大劇場は花組トップスター・安寿ミラのサヨナラ公演『哀しみのコルドバ』(演出:柴田侑宏)/メガ・ヴィジョン』(演出:三木章雄)』の公演中であったが、17日以降の公演は中止に。その後2月17日から予定されていた天海祐希主演の月組公演『ハードボイルドエッグ(演出:正塚晴彦)/EXOTICA!(演出:酒井澄夫)』は全公演中止になった(6月2日からの東京公演は上演)。

 安寿ミラのサヨナラ公演は、大阪・梅田の劇場・飛天(現・梅田芸術劇場)で3月に一カ月間公演を行う予定だった演歌歌手・細川たかしの厚意でスケジュールの半分を譲り受け、公演の続きを劇場・飛天にて行った。そして5月4日と5日に、奇跡的な速さで復興を遂げた宝塚大劇場で安寿のサヨナラショーのみが行われたのだった。阪神・淡路震災時には宝塚のOGらが東京等でチャリティーコンサートを行い、また安寿の大劇場でのサヨナラショー実施についてファンが全国で署名活動を行うなど、まだ今ほどインターネット環境も整っていない時代に人と人のつながりが早期復興を支えたともいえよう。

 また宝塚歌劇団の機関誌である「歌劇」の1995年2月号は異常に薄い状態で発行された。宝塚歌劇団の生徒(タカラジェンヌ)が執筆する原稿が落ちてしまったりなど、異常事態がひしひしと伝わる『歌劇 2月号』だったが、それでも被災地でよくぞ発行したともいえる。その次の3月号は厚さはいつも通りだったが、生徒の執筆するコーナーには、「震災発生時、私はこうしていた」などと生々しく震災の様子が綴られており、東京出身の生徒たちが実家に被災するため、宝塚市内から歩いて伊丹空港まで歩いたという内容もあった。そうした記事からもたくましく、絶望したい状況でも前に進み続ける宝塚の生徒たちの力強さがひしひしと感じられる。また宝塚市内在住の当時5年目の男役スター・汐美真帆が、稽古が再開するまでの間、市のボランティアとして働いていたことも後日ニュースで取り上げられ話題になった。

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