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緊張深まる日韓――「国境の島」対馬の経済を直撃(下)

韓国人観光客が消えた対馬、真っ昼間なのに街は閑散…韓国資本のホテルが開業中止で売却

文=北沢 栄/ジャーナリスト
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 注目されるのは、小西行長、加藤清正らの軍勢が釜山城落城から山谷を越え、わずか20日ほどで都の漢城(ソウル)を陥落させたことだ。さらに、1カ月あまりで平壌を占領。一方、加藤清正軍は北上を続け、7月に現・北朝鮮の東北奥で逃走中の朝鮮国王子2人を捕虜にしている。

 朝鮮国王は明国との国境沿いに逃れ、宗主国の明に救護の派兵を要請、これにこたえ7月、明軍が派遣される。日本軍は戦いで多数の捕虜を得て日本に連行した。その総数は不明だが、3万とも5万とも言われている。うちかなりの人がポルトガル商人に売られ、海外に連れて行かれたらしい。

 その後、明軍を加えた朝鮮軍やゲリラによる反撃、朝鮮水軍の勝利、日本軍の食糧・物資の補給困難などから戦局は一変して休戦に。だが、講和交渉の決裂で、秀吉は1597(慶長2)年、再び朝鮮出兵を行う(慶長の役)。

 韓国側を驚かせたのは、日本軍の電撃的な侵攻スピードと鉄砲の威力だ。将兵の勇猛さにも恐れを抱き、当時、朝鮮では加藤清正を挙げて、子どもに「泣きやまないと、清正が来るよ」と脅したと伝えられる。

 朝鮮出兵が対馬に与えた影響は大きい。戦争の間、軍勢を動員して出兵したのに加え、中継地として各軍への物資・人夫や通訳の供給を課された。それまでに築いていた朝鮮との友好な通商貿易関係のすべてが途絶え、経済的基盤を失った。

 こうした窮状を一転させたのが、徳川家康であった。家康は朝鮮出兵の失敗を認め、対馬の島主、宗義智に朝鮮との国交回復を命じる。困難な交渉の末、1607(慶長12)年、朝鮮使節団の来日に成功、2年後に日朝貿易が再開する。1607年に朝鮮国が送った大使節団は504人にも上った。

 使臣たちは、3月に対馬の厳原から入って6月に徳川家康に会い、家康が朝鮮を侵攻する気がないことを確認して家康への信頼を深めている。このとき、韓国人の捕虜1418人が船8隻に分乗して朝鮮国に帰った(志岐隆重著『十二回の朝鮮通信使』)。

 以後、江戸時代に12回にわたり朝鮮通信使が対馬を渡って、江戸や日光を訪れた。その間、双方の交易は続いて争いはなく、平和な互恵関係を保った。17世紀後半には、対馬藩の朝鮮貿易は最盛期を迎える。

 この歴史的教訓は重要だ。「時の政権」が賢明なら、国は交易拡大を通じて友好関係を保ち、互いに経済的文化的繁栄を享受できる。

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17:30更新
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