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小早川隆治「日本のクルマづくり~さらなる志・凛・艶・昂を目指して~」

マツダ、モータースポーツ挑戦の原動力になった欧州レースの舞台裏

文=小早川隆治/モータージャーナリスト
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『マツダ欧州レースの記録 1968-1970』(三樹書房/山本紘監修、小早川隆治協力、松田信也編著)

 前回は前編として、1968年の「マラソン・デ・ラ・ルート84時間レース」にコスモスポーツで挑戦、4位に入賞したことをご紹介したが、今回はR100(ファミリアロータリークーペ)による70年のスパ・フランコルシャン24時間レースの話をメインにしたい。

 68年のコスモスポーツは規則上と長時間レースのため出力は128psに抑えたが、69年からのR100による欧州レースへの挑戦では、規則上ペリフェラルポートへの変更が可能となり、耐久性を配慮しても185ps/7500~8500rpmとかなり高い出力となった。

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1969年のスパ・フランコルシャン

 69年のスパ・フランコルシャン24時間レースには3台のR100が出場、不幸なことにスタートから約3時間後、30号車のハンドルを握っていたデルニエ氏が下りのコーナーでポルシェに抜かれたあとガードレールに接触、クラッシュして死亡する事故が発生した。

 本社の専務から「最後まで走り切れ」と電話で叱咤激励され、レース後、レース関係者が事故現場に出向き、冥福の祈りを捧げたという。この24時間レースでは残りの2台が5位と6位でフィニッシュ、8月20日から23日まで行われたマラソン・デ・ラ・ルート84時間レースでは1台が64時間後リタイヤするが、もう1台が5位でフィニッシュした。

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1970年の英国シルバーストーンサーキットにおけるRACツーリストトロフィーの際の様子。前列右側のR100のドアに手をかけているのが山本紘さん

 以下は、『マツダ欧州レースの記録 1968-1970』(三樹書房/山本紘監修、小早川隆治協力、松田信也編著)の中の山本紘さん(マツダにおいて、モータースポーツ担当、ユーノスコスモ開発主査、商品主査室長、マツダ理事などを務められ、2001年に退職後は丹波にお住まい)の記述の一部だ。

「1969、1970年の欧州レースで最も深く記憶に残っているのは1970年のスパ・フランコルシャン24時間レースだ。前年優勝のポルシェ911がGTカテゴリーに移されたため、マツダ、アルファ ロメオ、BMWなどにチャンスありというのが前評判になった。事前のシミュレーションから優勝と3台の走行距離合計で競うボードワン国王杯も夢ではないと考え、4台体制で臨むことにした。

 車検を通過し第1次予選もタイムは想定通り…とすすんだところで、競技委員長から『マツダR100のオーバーフェンダーは出すぎている。本番までに修正せよ』という指示が…当時のイエローブックには『車体全幅より片側50mm出してもよい』と書かれており、それに従って対応したのだが、R100の全幅はドア付近で、前輪の車軸上に移すと70mmくらい出ている勘定になった。競技委員長はその場でこの規則は車軸上で50mmだと言い張り、『自分がルールブックだ』と言わんばかり…裏で某チームのアピールがあったとの噂も聞こえてきたが、やむなくフェンダーを叩きフロントタイヤをワンサイズ下のものに替えて出走、案の定第2回プラクティスではコーナリングスピードが落ち、対応策を松浦国夫さんとも協議、回転リミットを500rpmアップとすることにした。

 本番スタート後は順調にラップを重ね、17時間目は1-3-4-8位、18時間過ぎた時点でも1-4-5-8位をキープしたが、その後1台がリタイヤ、残る3台が1-4-5位をキープし周回を重ね(2位はBMW2800CS)、“1位とチーム賞の両方を獲れる”と思い、欧州ディーラーの人達の『君が代とシャンペンの用意を』という声や、『祝Mazda R100』の吹き流しを引っ張るセスナを離陸させるという話を耳にした。

 ところが21時間10分ぐらいのところで1位の片山車(No.31)がエンジンバーストでリタイヤ、3時間ほど前にリタイヤした外人ドライバーの、『自分のドライブミスではない。エンジンが突然バーストした』という必死の訴えも聞き、直ちに3位走行中の片倉選手をピットインさせ、回転数ダウンの指示を出したが、このクルマも間もなくエンジンバーストによりリタイヤしてしまう。

 最後の1台にすべてを賭けるべく、残り1時間を切ったところでピットに入れ、約30分間ピット前に停車させた。次のドライバーのJ.ハインにゴールライン手前で待ち、1位が通過しチェッカーフラッグが降られたらゆっくり1ラップするように指示、彼はその通り実行してくれ5位入賞を果たすことができたが回転数アップによるエンジンバーストという大きな代償を払うレースとなった。翌年のFIAのイエローブックは『車軸上で+50mm』と書き換えられていた」

ロータリーエンジンのポテンシャルを実証

マツダワークスチームの出場車とドライバー
No.31:片山義美、武智俊憲
No.32:片倉正美、C.ベイカー
No.33:R.エネヴァー、J.ハイン
No.34:Y.ドゥプレ、P.Y.ベルタンシャン

●レース経過
2時間目:4-10-11-13位
8時間目:2-3-4-8位
12時間目:1-3-4-8位
18時間目:1-4-5-8位

●決勝結果
No.31:21時間11分 リタイヤ
No.32:22時間40分 リタイヤ
No.33:総合5位 4057.736km、169.072km/h
No.34:18時間35分 リタイヤ

 スパ・フランコルシャン24時間レースは24年に始まり、一時中断はあるものの、64年からは毎年開催されてきた市販車改造車レースの最高峰と呼ばれるレースで、もしマツダが71年に国内にシフトせず、もう一度挑戦していたらと思うところだが、81年に初代RX-7で優勝を果たすことができた。

 マツダ車以外にこれまでに優勝した日本車は91年のスカイラインGT-Rだけだ。68-70年のマツダの欧州レースの成果は導入直後のロータリーエンジンのポテンシャルを実証しただけでなく、その後のル・マン挑戦を含むモータースポーツへの挑戦の原動力となった。

(文=小早川隆治/モータージャーナリスト)

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小早川隆治/モータージャーナリスト

小早川隆治/モータージャーナリスト

1941年生まれ。学習院大学卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。RX-7&モータースポーツ担当主査、北米マツダ副社長などを務める。退職後、モータージャーナリストとして活動。日本自動車研究者ジャーナリスト会議監事。

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