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三浦展「繁華街の昔を歩く」

あなたは本当の人形町(東京)を知らない…かつて移転前の「吉原」があった

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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吉原は人形町から

 東京で昔の花街の情緒を残した繁華街というと、神楽坂人形町、荒木町の3つだろう。が、神楽坂は最近すっかり人手が増えて、なかば観光地化しているので、しっとり飲みたい、ちょっと大人の人々は人形町か荒木町に足を向けることが多くなったようだ。

 人形町は、江戸時代初期に最初に遊廓がつくられた場所である。今の人形町駅の西側であり、この地域一帯が、葭(よし)の生える湿地帯だったので「葭原」と呼ばれ、これが転じて「吉原」となった。今の台東区の吉原は明暦の大火で焼失した人形町の吉原が移転したもので、昔は「新吉原」といい、人形町のほうが「元吉原」といった。今も「大門通り」という通りがあるのは「元吉原」の大門のことである。

 そもそも人形町は、江戸開府後の寛永元年 (1624) 頃、京都から来た歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、江戸歌舞伎の猿若座(のちの中村座)を開き、その後、村山座(のちの市村座)ができるなど、人形浄瑠璃、見世物小屋、曲芸、水芸、手妻 (手品)を安い料金で楽しめる小屋がたくさんある場所だった。

 そのため、この界隈(現在の人形町 2 丁目周辺)には人形をつくる人、修理する人、商う人や、人形を操る人形師らが大勢暮らしていたので、元禄時代頃には「人形丁」と呼ばれていた。現在も人形館「ジュサブロー館」がある。正式に「人形町」という町名になったのは、関東大震災以降の区画整理によるもので1933年である。 

 芝居小屋が多数あったので踊り子もたくさんいた。なかでも元禄時代に「菊弥」(きくや)という有名な美人踊り子がおり、彼女はその後、深川に移って深川芸者の起源になった。そもそも芸者というものの始まりが、このように踊り子が三味線や浄瑠璃を覚えて披露するようになったことにあるという説もあるそうだ。

花街として栄える

 また明治になると、1872 年に水天宮が移転してきて、安産祈願の参拝客が押し寄せ、芸者置屋、料亭なども建ち並んで、芳町花柳界として栄えた。1923年には芸者898人と、東京で2位の規模であり、格付けから言っても、柳橋、新橋に次いで高い評価を得る高級花街だった。検番は今の喜寿司の前にあった。

 23年の関東大震災後には置屋もバラックだったが、料亭もまたバラックで、夜道を懐中電灯を持ってお座敷に出たという。こんな状態で商売が成り立ったのだから、この道に賭ける人間の業は果てしない。コロナが流行ってもキャバクラに行く人が絶えなかったのと近いか。

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大正時代の芳町花柳界の芸者たち。何かのイベントか。

 歴代芳町芸者で最も有名なのは川上貞奴だろう。貞奴は芳町では「奴」と名乗り、1892年に浅草凌雲閣(十二階)で開催された「東都百美人」という、いわば「東京芸者総選挙」で見事入選している。

 人形町商店街も当然、芳町花柳界と密接な関係があるが、大売り出しのときには店頭に芸者衆の写真を貼りだし、買い物客に人気投票をさせていたというので、こういうことは昔からあったのだ。

 定奴は、時の総理大臣・伊藤博文や西園寺公望ら、名立たる元勲から贔屓にされ、日本一の芸妓だった。しかし1894年、自由民権運動の活動家で「オッペケペー節」で知られる川上音二郎と結婚。ともに欧米を巡業し日舞を披露して大人気を博した。

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川上貞奴

 もう1人の有名芸者は小唄勝太郎。あの「東京音頭」を大ヒットさせた芸者である。もとは新潟の料亭にいたが、好きな清元で身を立てるべく1929年に上京、芳町で芸者となり勝太郎と名乗った。清元、小唄、長唄、新内など、あらゆる歌が得意でレコード会社から注目され、31年にデビューしヒットを飛ばして日本中で人気となり、33年には芸者を辞めて歌手専業となった。

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小唄勝太郎

カフェーの大流行

 さて、大正時代になると、人形町駅の東側にカフェーが多くできた。その1つがカフェー・パウリスタである。銀座(当時は京橋南鍋町)に1909年に1号店を開いたが、人形町には13年に開店した。他には丸の内、神田、浅草にあったという。

 洋風の店構えで、天井高は10メートルもあって、40〜50人が収容できた。白大理石のテーブルが置かれ、シュガーポットには砂糖が山盛りに入れられていた。お金を入れると自動的に演奏をするオルガンもあった。

 メニューにはカレーライス、ハヤシライス、カツレツ、お菓子としてはショートケーキ、カステラ、レモンパイ、アップルパイ、プリンなどもあった。そうしたお菓子をパウリスタで初めて食べた人も多かった。カツレツにはパンが付いてきたが、パンでは物足りないのでご飯を頼む客がいて、それからは、どこの店でもカツレツにはご飯が出るようになった。

 1922年には店内でアメリカ映画を上映を開始し、店は超満員だった。店が大繁盛したので、従業員もたくさんボーナスをもらえた。10人いた従業員は経営者に感謝の念をこめてシャンデリアを店にプレゼントした。光り輝くシャンデリアは店のムードを一段と高めたという。パウリスタは大震災で焼失したが、すぐに再建し42年まで営業した。

 その他にも、震災後、カフェーが人形町通りを挟んだ両側の路地などに多数出現した。1935年ごろには80軒ほどのカフェーが軒を連ねるほどであった。もちろんここでいうカフェーはコーヒーだけを飲む「純喫茶」ではなく、女給が密接して接待を行うものが主である。コーナーハウス、東天紅、モンパリ、馬車屋、オリンピック、上海など店名も多彩だった。

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カフェーが流行した1935年頃

 だが戦争が激しくなると外国語が使えなくなり、コーナーハウスは角家(かどのいえ)と名称変更した。神風、愛国という店名も変更したものである。カフェーの店名としてはどう考えてもふさわしくない。馬鹿な国粋主義の現れである。

 寄席も多かった。震災前には、金本、久濱亭、大鉄、守川、若松亭、末広亭、大ろじ亭、喜扇亭、鈴本亭などがあり最盛期を誇っていた。花柳界に寄席。まさに娯楽の殿堂のような街であった。

(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

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地図 人形町カフェー街考証図(喜多川周之作成)

参考文献

人形町商店街協同組合編『にほんばし人形町』1976

人形町商店街協同組合ホームページ

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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