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東京都知事選“史上”に残る強烈&過激な候補者7人…外山恒一、赤尾敏、太田竜

文=深笛義也/ライター
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赤尾敏

 1959年、1963年、1967年、1971年、1975年、1979年、1983年、1987年と、8回も都知事選に立候補しているのは、大日本愛国党総裁であった赤尾敏(1990年に逝去)。最初の立候補の時に60歳、最後が88歳の時であった。

 赤尾は戦中の1942年の翼賛選挙で当選し、帝国議会議員になっている。その当時は、反ソビエトの立場から、アメリカとの戦争に反対する反戦演説を行っていた。赤尾が大日本愛国党を結成したのは、戦後の1951年。銀座数寄屋橋にて街宣車の上で、赤尾が毎日行う辻説法は風物になっていた。著書には『憂国のドン・キホーテ』(山手書房)などがある。

 1987年の政見放送では「当選なんかしやしないんだから、こんなバカな選挙。ムチャクチャなんだから。なんで立候補するかと言ったら、立候補して、眠っているバカたちに教えるためだ」「愛国党を暴力団のように思っているかもしれないが、そうじゃねえんだ。社会党や共産党よりも偉大な精神を持ち、戦争前も戦争中も戦後も一貫してやってるんだ」などと語った。

 赤尾は1971年では1万458票獲得し、13名の候補者のうち3位にまで迫った。最後の立候補であった1987年では、2万1211票を獲得し11名中5位だった。

太田竜

 革命的共産主義者同盟(現在の中核派、革マル派など極左団体の母体)の創始者の1人である、太田竜(2009年に逝去)が立候補したのは、1987年。組織が分裂し、新たな組織をつくっては除名されたり脱党したりを、太田はくり返した。その著書『辺境最深部に向って退却せよ!』(三一書房)は、三菱重工をはじめとした連続企業爆破事件を1974年に起こした、東アジア反日武装戦線に思想的影響を与えた。

 太田はその後、環境保護活動家に転身した。都知事選立候補では、自ら結成した「日本みどりの連合」が支持母体だった。政見放送では「みなさんこんにちは。私は東京都知事に立候補した日本みどりの連合の太田竜です。知りたい方は日本みどりの連合にご連絡ください」とだけ語り、アナウンサーによる経歴紹介を含めても1分に満たなかった。

 太田は1万8564票を得て、11人中6位であった。