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オーケストラが謀反?夏休み求め演奏中に舞台上から退散…名曲誕生の意外なきっかけ

文=篠崎靖男/指揮者
【完了】ベートーヴェンやハイドン、名曲誕生の意外なきっかけ…ラブレターばりの意思表示の画像1
「Getty Images」より

 18世紀から19世紀初頭に活躍したオーストリアの作曲家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。“交響曲の父”や“弦楽四重奏曲の父”といわれている人物です。なんと104曲も交響曲を作曲した彼の前半の活動は、オーストリア帝国の有力貴族、エステルハージ家のお抱え音楽家でした。エステルハージ家は当時のオーストリアで、ハプスブルク王室を除けば、国内最大の権勢をふるった一家です。

 僕も留学時代に何度も訪れましたが、その豪華な宮殿内には、現在も使用されているコンサート専用の大ホールまで備えられており、音楽好きな領主・ニコラウス公は、自分が楽しむためにオーケストラまで所有していました。そんな宮殿内で、ハイドンは交響曲を作曲し、オーケストラを自由に使うことができたのです。

 ところが、ニコラウス公は美しい湖畔に離宮、すなわち豪華な別荘を建て、1年の半分をそこで過ごすようになります。もちろん、ハイドンをはじめとしてオーケストラの楽員も家族を残して同行しているのですが、ある夏のこと、大公はお気に入りの離宮から宮殿になかなか帰ろうとしません。とにかく、毎日のように音楽を聴きたい大公は、現代のようにCDなどがあるわけではないので、雇っている楽員のことなどお構いなしで演奏を続けさせていました。一方、使用人の立場とはいえ、夏の休暇シーズンにもかかわらず家族に会えない楽員にとっては、たまったものではありません。

 とはいえ、主君に対して直接、「夏の休暇をください」とはさすがに言いにくいので、ハイドンは一計を案じました。新作の交響曲に、後にも先にも誰もやらないような前代未聞の“仕掛け”を盛り込んだのです。

 ある日、ニコラウス公はハイドンの新しい交響曲を楽しみにしながら、演奏が始まるのを待っていました。ところが、始まってみたら、夏の楽しさを膨らませてくれるような楽しいものではなく、調性も短調で、激しく悲しみを感じさせる音楽です。続く第2楽章も、最初はいいものの、だんだん泣き出していくような雰囲気で、続く第3楽章も、最後は悲しみを後に引くように小さな音量で終わります。ここまで聴いたニコラウス公も、さすがに気づいたかと思いますが、最終楽章にハイドンの最後の一押しが待っていたことは、予想もできなかったに違いありません。

 最終楽章は、悲しく、理不尽さを呪うような音楽で始まります。そして、急にゆっくりとした音楽となり、ここからが最後の驚くべき仕掛けが始まったのです。まず、オーボエとホルンがちょっとしたソロを演奏したあと、譜面台についているロウソクを消して、「これで仕事を終えます」とでも言っているように、なんと舞台上から去っていったのです。その後、残された楽員も、一人ずつロウソクを消して舞台から去り、最後に残されたハイドンとコンサートマスターにより、4つの音が静かに演奏されて舞台は真っ暗になったのです。

 さすがにニコラウス公も、「わかったわかった。夏の休暇を取っていいよ」と言うしかありませんでした。翌日、ハイドンと楽員は、無事に家族が待っている町に帰っていきました。これが、いたずら好きなハイドンの交響曲第45番『告別』の話です。

 その後もハイドンのいたずらは終わることなく、ますます冴えるばかりでした。たとえば後年、ロンドンで新作の交響曲を初演した際に、遅いテンポの第2楽章の途中で、こっくりこっくりと寝てしまう観客に対して一計を案じました。

 それは、あえて眠たくなるような単純な音楽を作曲し、音量もどんどん小さくすることで、観客の眠りを十分に誘っておきます。そこで、なんの脈絡もなしに、爆弾が爆発したような大きな音量をオーケストラ全員で演奏し、寝ている観客のみならず、全員を椅子から飛びあがらせたのです。この交響曲は、『驚愕(びっくり)』というタイトルで知られていますが、今でも、初めて聴いた聴衆がざわざわしているのが、指揮をしている背中越しに聴こえてくる時があります。通常ならば、演奏中の観客席のざわつきは嬉しくはないのですが、この時ばかりは「いたずら大成功!」とばかりに、楽員たちとニヤリとしてしまいます。

ベートーヴェンの傑作『告別』誕生の裏側

 さて、音楽によって夏の休暇の許しを得たハイドンですが、そこに利害関係はなく、大人のやり取りを茶目っ気たっぷりに音楽で行っただけでしょう。しかし、ハイドンの後輩にあたるベートーヴェンが『告別』という題名のピアノ曲を書いたときは、利害が絡んでいたのかもしれません。

 彼が作曲した32曲のピアノソナタには、さまざまなタイトルがつけられていますが、実際にベートーヴェン自身が名付けたのは、第8番『悲愴』と、26番『告別』しかありません。この『告別』は、ベートーヴェンの最大のパトロンのひとり、オーストリア皇帝の弟にあたるルドルフ大公に捧げられた、曰く付きの作品なのです。

 ハイドンやモーツァルトとは違い、誰にも雇われない自由な作曲家として活動していたベートーヴェンでしたが、やはり貴族階級のパトロンの援助を受けることでなんとか生計を立てていました。そんななかで1809年4月9日、ナポレオン率いる当時最強のフランス軍と、ベートーヴェンが活動していたオーストリアとの間で戦争が始まります。開戦後たった1カ月でフランス軍がウィーンに侵入してきますが、その1週間前、大混乱のウィーンからルドルフ大公も慌てて逃げだすことになりました。実はベートーヴェンは、戦争が始まる1カ月前に3人のパトロンたちから終身年金を受け取る契約を交わしたところで、ルドルフ大公はそのひとりでした。今後の生活や活動を考えると、ベートーヴェンにとっても一大事です。

 その後、オーストリアは降伏し、ルドルフ大公は翌年1月にウィイーンに帰還を果たします。そこで、出迎えたベートーヴェンは、1曲のピアノソナタを大公に献呈します。

 当時、ピアノソナタに具体的な題名を付けることは一般的ではありませんでしたが、第1楽章『告別』、第2楽章『不在』、第3楽章は『再会』と、ベートーヴェンは楽章ごとにタイトルを付けました。第1楽章は、大切な友人である大公との別れを惜しむような悲しい音楽で始め、続く第2楽章は大公がいない寂しさと不安、最後の第3楽章は急な再会の喜びを大爆発させていることがありありとわかる音楽。こんなことをされたら、ルドルフ大公もノックアウトされ、ベートーヴェンに一生、援助を惜しまないことを決めたと思います。

 ベートーヴェンは、音楽で気持ちを表すだけでなく、「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と楽譜に書き入れるくらいの念の入れようでした。その後のルドルフ大公が、ベートーヴェンの大切な理解者で、かつ後援者であり続けたことは言うまでもありません。

 そのような経緯で生まれたピアノソナタ第26番『告別』ですが、これがベートーヴェンの最高傑作のひとつとなりました。実は、ハイドンが居眠りする観客を叩き起こすことに成功した交響曲第94番『驚愕』も、ハイドンの作品でもっとも有名になっています。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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