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江川紹子の「事件ウオッチ」第158回

【戦後75年】日本が取り組むべき残された「宿題」…朝鮮半島出身の元BC級戦犯に補償を

文=江川紹子/ジャーナリスト
【戦後75年】日本が取り組むべき残された「宿題」…朝鮮半島出身の元BC級戦犯に補償をの画像1
戦後補償の解決を訴える李鶴来さんは、日本に残る朝鮮半島出身の元戦犯としては最後の1人となる(写真は李さんの手記『韓国人元BC級戦犯の訴え』)

 コロナ禍のなかで迎えた75年目の「終戦の日」。実際に戦地で戦争を体験した人の多くは鬼籍に入り、生存者も90歳代の半ばを超え、生の証言を聞くことは難しくなっている。本土で空襲を経験した語り部も、もはや80歳代。歴史をどう未来に引き継ぐか、という課題に直面している同時に、日本社会が戦後の「宿題」をどれだけきちんと果たしてきたか、その優先順位も含めて点検しなければならない。

「受忍論」で退けられる民間人の戦争補償

 もっとも大きな「宿題」のひとつが、今なお海外にある遺骨の収集問題。厚労省によれば、海外戦没者のうち、いまだ収容されていない遺骨は約112万柱に上る。そのうち、「海没遺骨」と「相手国事情により収容が困難な遺骨」を除いた約59万柱が「未収容遺骨」となっている。

 また、空襲による民間人被害者の問題も、広島・長崎の原爆症以外はほとんど手つかずだ。

 原爆にしても、原爆投下後の「黒い雨」を浴びたのに被爆者健康手帳の交付申請を却下された人たちが起こした訴訟は、広島地裁が出した原告全面勝訴の判決を、政府の意向で国や県、広島市が控訴。引き続き裁判で争われることになった。提訴時の原告88人のうち、一審に要した4年の間に16人が亡くなった。現在、最高齢の原告は96歳(被爆時21歳)、最年少は75歳(同生後4カ月)という。

 軍人軍属にはなされる補償が、日本の民間人は受けられない。民間の空襲被害などの賠償を求めて起こした訴訟は、戦争の被害は「すべて国民がひとしく受忍しなければならない」という「受忍論」で退けられ、敗訴が確定している。しかも、補償を求める人たちに対して、「そんなにカネが欲しいのか」などと罵倒する手紙が何通も寄せられた、という。SNS上でも同趣旨のコメントが飛び交っている。しかし、同じ敗戦国のドイツやイタリアでは、民間人の戦争被害にも補償がなされている。私たちは「受忍論」を当たり前のように思い込まされ、思考停止に陥ってはいなかったか。再考してみる必要はあるように思う。

 民間人の戦争被害については、補償どころか、その実相すら明らかになっていない。8月16日付け毎日新聞によると、原爆を含む大規模空襲があった107自治体での死者数は約38万7000人。そのうち氏名がわかるのは6割に満たない約22万1300人にとどまる。十分な調査が尽くされておらず、正確な人数さえわからないのが現状、という。これでは、戦争の歴史を、将来にきちんと引き継ぐことができないのではないか。

 そして、きわめて早急な対応をなさねばならない「宿題」のひとつが、朝鮮半島や台湾出身の旧日本軍BC級戦犯への補償問題だ。彼らは、日本軍の軍人・軍属だった者として、戦後、連合国による軍事法廷で裁かれた。321人が捕虜虐待などの罪で有罪とされ、朝鮮半島出身の23人、台湾出身の26人は死刑になった。

 日本人の場合は、BC級戦犯も恩給の対象になり、刑死や獄死の遺族にも遺族年金が支給されるが、戦後、日本の国籍が失われた、朝鮮半島や台湾出身者は対象にされていない。

 2000年に朝鮮半島・台湾出身者の重度戦傷病者と戦没者の遺族を対象に、最高400万円の見舞金・弔慰金を支給する法律ができたが、BC級戦犯はその対象にはならなかった。

 結局のところ、彼らは日本人として軍務につき、そのことが罪に問われて刑罰を受けたのに、戦後は日本人ではなくなったとして、日本政府からなんの補償もなされないまま放置されてきたのだ。あまりにも理不尽というほかない。

理不尽かつ無責任な日本政府の対応

 この問題に当事者として取り組んできた李鶴来(イ・ハンネ)の手記『韓国人元BC級戦犯の訴え』(梨の木舎)によれば、現在の韓国・全羅南道の山村で生まれ育った李さんが、捕虜監視員として日本軍軍属となったのは1942(昭和17)年6月。17歳の時だった。

 訓練では、「生きて虜囚の辱めを受けず」の「戦陣訓」や「軍人勅諭」をたたき込まれた。捕虜の人道的な取り扱いを定めたジュネーブ条約などは、その存在すら教えられなかった。軍隊では暴力が横行し、殴られない日はなかった。「声が小さい」「姿勢が悪い」「立派な日本人にしてやる」などの名目でビンタを受ける毎日だった、という。

 その後、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道の建設現場に派遣された。この鉄道建設には連合国の捕虜約5万5000人が労働力として投入された。ジャングルを切り開く過酷な現場で、食料や医薬品も十分でなく、約1万3000名の捕虜が死亡した。そのほか、現地労働者約5万名のうち3万3000名も死亡したといわれ、「死の鉄道」と呼ばれた。

 宿舎の責任者として捕虜の監視にあたった李さんは、捕虜に規則違反行為があった時の対応を、こう書いている。

〈「適正」の方法は、やはりビンタでした。2~3回ビンタをして、反省させるといったものですが、教育の方法として日本軍では罪悪視されていなかったので、これが捕虜にとっては大変な恥辱だったことを私は知りませんでした〉

 そうした行為が、戦後、罪に問われることになった。捕虜虐待の容疑で拘束され、一度は釈放されたものの、再逮捕。「責任は私にある」として、裁判で証言してくれることになっていた日本人の上官は、裁判の前に死刑が執行されてしまった。李さんは、十分な打ち合わせもできないまま行われた裁判で、絞首刑を言い渡された。その後シンガポールのチャンギ刑務所で、死刑囚として収監。8カ月の間に多くの死刑囚を見送り、最後のひとりとなった後、突然「懲役20年への減刑」となる。

 1951年に日本人戦犯が順次送還され、李さんも8月に横浜に上陸。朝鮮戦争特需に沸く日本に、初めて「帰国」し、スガモ・プリズンに収容された。

 翌1952年4月にサンフランシスコ平和条約が発効すると、李さんは「日本人」ではなくなった。釈放を求めて裁判を起こしたが、認められなかった。一方、軍人恩給が復活したにもかかわらず、日本国籍を持っていない李さんは対象外とされた。日本人として刑罰を受け続けるのに、援護や補償は日本人ではないからと排除されたのだ。

 仮釈放されたのは1956年10月。仲間とタクシー会社を設立し、補償を求めて運動を始めた。1991年に李さんを含めた7人が、日本国に謝罪と補償を求める国家賠償訴訟を起こした。

 1審の東京地裁は、「国の立法政策に属する問題」として請求を棄却。東京高裁(1998年7月13日)は、控訴は棄却したものの、李さんたちが日本人に比べて「著しい不利益を受けていること」を認め、「適切な立法措置がとられるのが望ましい」「国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じることが期待される」と付言した。

 最高裁判決(1999年12月20日)も、請求は退け、「立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当である」とした。李さんらの被害については、最高裁でも「半ば強制的に俘虜監視員に応募させられ……有無期及び極刑に処せられ、深刻かつ甚大な犠牲ないし損害を被った」として、その深刻さを認めている。

 以後、李さんたちは国会での立法を求める運動を展開した。2008年には民主党が特別給付金の支給を柱とする法案を衆議院に提出したが、審議未了で廃案となった。2016年には、超党派の日韓議員連盟で、1人260万円の特別給付金を出す法案をまとめたが、いまだに国会提出されないままだ。

 最高裁から「宿題」を与えられて20年以上が経つ。今なお立法措置がとられていないのは、いくらなんでも時間がかかりすぎだし、国家として無責任ではないか。

 これまで運動を引っ張ってきた李さんも、すでに95歳。時間はもう、あまり残されていない。急いで取り組むべき「宿題」だ。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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