日立は「重電の雄」からの脱却に向け、かじを切った。99年、第7代社長に就いた庄山悦彦氏は、「東大工学部卒、重電畑出身、日立工場長経験者」という社長3点セットを満たしていなかった。東京工業大学理工学部(電気工学専攻)卒、家電畑出身、栃木工場長経験者だ。電機業界にデジタル化の波が押し寄せるなか、旧習は否定された。
庄山氏は多角化路線を採る。自動車からエスカレーターまで電子デバイスを活かしたモノづくりのために、次々と新しい事業を買収して社内に取り込んでいった。グローバル展開を謳い、その目玉として米IBMからHDD(ハードディスク事業)を2400億円で買収した。HDDはパソコンやサーバーに用いる記憶装置。日立のハードディスク部門と統合して日立グローバルストレージテクノロジーズ(HGST)を発足させた。HDD事業は巨額赤字の元凶となる。
庄山氏は第8代社長に古川一夫氏を起用した。東京大学大学院(電気)修士課程修了で、情報・通信畑出身だ。庄山=古川コンビは拡大路線をひた走った。売上高は悲願としてきた10兆円を超えたが、新しい事業は利益に結びつかなかった。躍進が期待されたデジタル家電で、庄山=古川コンビは大きくつまずいた。「技術は超一流」とされながら、薄型テレビで完全に出遅れた。半導体も市況悪化で窮地に陥った。
古川氏の抜擢は庄山氏が院政を敷くための布石だった面は否めない。古川氏は有効な手を打てなかった。業績は悪化の一途。一時は米国系買収ファンドが日立の買収を検討するほどだった。その迷走経営の結果が09年3月期の国内最大規模の7873億円の最終赤字となった。
子会社に飛ばされていた川村氏が社長に復帰
日立は再び大きくかじを切る。就任からわずか3年しかたっていない情報・通信部門出身社長を更迭。グループ会社の会長に出され、退任することが決まっていた重電出身者を呼び戻し社長に据えた。
川村隆氏は09年4月1日、日立製作所の会長兼社長に就いた。「東大工学部卒、重電畑出身、日立工場長経験者」という保守本流である。家電部門、情報・通信部門出身者が失敗したため、保守本流の重電部門に大政奉還したわけだ。
日立は当時、16社もの上場子会社を持っていた。各事業の自主独立を重んじる伝統があったからだ。日立そのものが久原鉱業から独立してできた会社だ。グループ会社とはいえ、そこのトップは一国一城の主である。「本社何するものぞ」という気概を持っていた。
かつて日立は「野武士」、東芝は「旗本」、三菱は「殿様」、松下(現パナソニック)は「商人」といわれた。日立の上場子会社群は野武士の気風を残していた。野武士集団を抑えるために、保守本流で最年長者の川村氏が引っ張り出されたようなものだ。