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「偉人たちの診察室」第8回・徳川綱吉

精神科医が語る徳川綱吉の「マザコン」と「小人症」…実母への思慕と劣等感、生類憐れみ令

文=岩波 明/精神科医
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5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院(通称は玉)。「生類憐れみの令」の発布には、彼女が寵愛していた祈祷僧が関わったともいわれている。(画像はWikipediaより)

後年“悪性”と評された、生類憐れみの令をはじめとする綱吉の治世

 綱吉の治世においてもっともよく知られているものが、「生類憐れみの令」である。

 これはひとつの法律ではなく、「生類を憐れむ」ことを趣旨とした数多くの法令の通称である。保護の対象としては、捨て子や病人から、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類などにまで多岐に及んだ。その一例を以下に挙げる。

一、犬ばかりに限らず、惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事。
(犬ばかりではなく、その他の生物に対しても慈悲の心から出るあわれみをほどこすことが肝要なのである)

 この法令は後年「天下の悪法」と評価されることが多かったが、儒教に基づく文治政治の一環とする見方も存在している。

 綱吉の治世の前半は堀田正俊を大老として重用し、徳を重んじる政治を推進した(天和の治)。ところが、1684年に堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺された事件をきっかけとして、綱吉は側用人の柳沢吉保らを重用して、偏った政治を行うようになったと評されることが多い(堀田正俊の殺害については、綱吉が黒幕である可能性も指摘されている)。

 この時期に前記の生類憐みの令の発布をはじめ、“悪政”といわれる政治を行うようになった。生類憐れみの令は、母の寵愛していた祈祷僧の隆光のすすめによって発布したものという説もみられる。

 多くの歴史学者においては、綱吉の政治的な手腕については否定的な見方が強い。たとえば、綱吉の評伝の作者で近世史が専門の塚本学は、綱吉について次のように厳しい見方をしている。

「著名人ではあり、同時代の日本人のなかでは、その生没年などが記録される少ない例のひとりでもある。現代日本人の多くもその名を知っている。だが、彼に特別の敬意や魅力を抱くものはほとんどあるまい」(『徳川綱吉』吉川弘文館)

 また、江戸期の研究者であるベアトリス・ボダルト=ベイリーはその著書のなかで、生類憐れみの令について、綱吉が精神異常をきたした結果とみなす研究者も存在していることを指摘している(『犬将軍』柏書房)。ベイリーによれば、綱吉の治世の評価が低い理由は、将軍家の評伝である『徳川実紀』においてさえ、綱吉の政策について批判的に述べられているからだという。

 ジャーナリストの仁科邦男は、「生類憐れみの令」について、次のように否定的に述べている。

「不思議なことに生類憐れみの令からは個々の動物に対する愛情がほとんど感じられない」
「『見知らぬ犬でも食事を与えて養いなさい」と江戸の町にお触れを出したが、町の犬が城内への立ち入りを認められ、養われた記録はどこを探しても見つからない』(『「生類憐れみの令」の真実』草思社)

 さらに仁科氏によればこの法令は、綱吉の嫡子誕生祈願を動機として始まったもので、ひとりよがりの政策だったと指摘した。

オランダ商館医ケンペルは綱吉と対面し、“猿芝居”をさせられた

 一方、少ない例ではあるが、こうした見方に反対する意見もみられる。作家の井沢元彦氏は、綱吉は有能な名君であったと高い評価をしている。井沢氏はその理由として、側用人制度など家柄にこだわらず積極的に有能な人材の登用を行ったこと、戦国風の「すぐに人を殺す社会」から平和主義の社会に転換を図ったことを挙げている。(『逆説の日本史14』小学館)

 オランダ商館の医師として来日したドイツ人の医師ケンペルは、鎖国下の日本を訪れた数少ない外国人のひとりである。1691年、ケンペルは江戸で綱吉と対面したが、その様子を次のように記した。

「……商館長の拝礼のあと、高官たちが居並び御簾のうしろに将軍や大奥の女性たちが見ているなかへ、一行は呼びだされた。医師のケンペルは病気や薬について聞かれ、さらに『踊ったり、跳ねたり、酔っ払いの真似をしたり……外套を着たり脱いだり』と『猿芝居』をさせられた」(松井洋子『ケンペルとシーボルト』山川出版社)

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