
コンサート30分前の舞台裏では、どんなことが行われているのか--。皆さんも興味があるのではないでしょうか。実は、歯磨きをしているのです。
正確には、これは管楽器、特に金管奏者のケースです。オーケストラ楽員は、本番前の休憩中にちょっとした腹ごしらえをすることが多いのですが、管楽器のように直接息を吹き込んで音を出す楽器の場合は、口腔ケアをしっかりとしないと楽器が悪くなってしまいます。特に、金管楽器は錆びの原因にもなってしまうそうなので、金管奏者の全員が間違いなく歯磨きセットを持ち歩いています。
彼らが本番前に歯磨きをしているのは、我々にとっては当たり前の光景なので、弦楽器奏者も含めて誰一人気にしてはいません。しかし、たとえば毎週ヴァイオリンの個人教師に通っていた高校生が、なんとか難関音楽大学に合格し、生まれて初めてオーケストラで演奏できるようになった日。緊張で手のひらにかいた汗を洗おうと洗面室に入ったところ、トランペットの先輩が一生懸命歯磨きをしていたとすれば、とても驚くのではないかと思います。
他方、弦楽器奏者が気をつけなくてはいけないのは、手のひらにかく汗です。何年も前の話ですが、僕がドイツのオーケストラとヴァイオリン協奏曲のレコーディングをしていた時、録音を始めるために指揮棒を振り下ろそうとしたところ、急にイギリス人ソリストが「ごめん、手を洗ってくるね」と言って舞台裏に去っていき、驚いたことがありました。手に汗をかいた状態で演奏すると、指が滑ってしまって弾きにくくなってしまうのです。人間は緊張すると、どうしても手のひらに汗をかきやすくなりますが、繊細に指先を動かすすべての楽器奏者にとっては大きな問題となるので、汗を拭くハンカチが欠かせないと思います。
ピアニストにとっても、ハンカチは必需品です。とはいえ、ピアニストにとっては、ハンカチは自分の汗を拭くためだけではありません。たとえば、自分の前に弾いたピアニストが汗っかきで鍵盤が汗でツルツルになっているときなどは、自分の手のひらにも汗をかいているだけに、鍵盤の上がスケートリンクのような状態になって音をドンドン外してしまいます。そうなると大変ですから、ピアニストは観客の前であっても、鍵盤を右から左までハンカチでしっかりと拭いてから演奏を始めることになります。
ところで、このハンカチにも苦労があります。それは置き場所です。男性はいいのですが、女性のドレスにはポケットがないので置き場所に困ってしまうのです。ピアニストはピアノの上にそっと置いておくことができますが、ヴァイオリニストのように楽器のソリストはそうはいきません。そこで指揮者に、「ここに置いていいですか?」と丁寧にお願いして、指揮者用譜面台や指揮台の端に置くことになります。
僕の体験として、大概は事前にお願いされることはなく、ソリストがステージ上で困った顔をしたあとで急に頼まれるので、断りようがありません。しかし、毎回同じことを繰り返しているはずなのに、舞台上で置き場所に困っているようなヴァイオリニストが、実はすごく演奏は上手い人が多い気がします。
もちろん統計を取ったわけではありませんが、演奏するためにやるべきこと、それが手のひらの汗対策程度であったとしても、念には念を入れて舞台にハンカチを持ってくるような緻密さがあるからかもしれません。ただ、音楽に集中するあまり、ハンカチの置き場所など考えていないのでしょう。または、「断られたことないから」と、最初から指揮台の端に置くつもりなのかもしれません。何も言わず当然のように置くソリストも多いくらいです。指揮者としては、指揮台の端であっても踏んでしまいそうなので、高級そうなハンカチだと少し気になってしまいます。