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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

オーケストラ楽員、コンサート直前に必ずしていることとは?意外と知らない陰の作業

文=篠崎靖男/指揮者
オーケストラ楽員、コンサート直前に必ずしていることとは?意外と知らない陰の作業の画像1
「Getty Images」より

 コンサート30分前の舞台裏では、どんなことが行われているのか--。皆さんも興味があるのではないでしょうか。実は、歯磨きをしているのです。

 正確には、これは管楽器、特に金管奏者のケースです。オーケストラ楽員は、本番前の休憩中にちょっとした腹ごしらえをすることが多いのですが、管楽器のように直接息を吹き込んで音を出す楽器の場合は、口腔ケアをしっかりとしないと楽器が悪くなってしまいます。特に、金管楽器は錆びの原因にもなってしまうそうなので、金管奏者の全員が間違いなく歯磨きセットを持ち歩いています。

 彼らが本番前に歯磨きをしているのは、我々にとっては当たり前の光景なので、弦楽器奏者も含めて誰一人気にしてはいません。しかし、たとえば毎週ヴァイオリンの個人教師に通っていた高校生が、なんとか難関音楽大学に合格し、生まれて初めてオーケストラで演奏できるようになった日。緊張で手のひらにかいた汗を洗おうと洗面室に入ったところ、トランペットの先輩が一生懸命歯磨きをしていたとすれば、とても驚くのではないかと思います。

 他方、弦楽器奏者が気をつけなくてはいけないのは、手のひらにかく汗です。何年も前の話ですが、僕がドイツのオーケストラとヴァイオリン協奏曲のレコーディングをしていた時、録音を始めるために指揮棒を振り下ろそうとしたところ、急にイギリス人ソリストが「ごめん、手を洗ってくるね」と言って舞台裏に去っていき、驚いたことがありました。手に汗をかいた状態で演奏すると、指が滑ってしまって弾きにくくなってしまうのです。人間は緊張すると、どうしても手のひらに汗をかきやすくなりますが、繊細に指先を動かすすべての楽器奏者にとっては大きな問題となるので、汗を拭くハンカチが欠かせないと思います。

 ピアニストにとっても、ハンカチは必需品です。とはいえ、ピアニストにとっては、ハンカチは自分の汗を拭くためだけではありません。たとえば、自分の前に弾いたピアニストが汗っかきで鍵盤が汗でツルツルになっているときなどは、自分の手のひらにも汗をかいているだけに、鍵盤の上がスケートリンクのような状態になって音をドンドン外してしまいます。そうなると大変ですから、ピアニストは観客の前であっても、鍵盤を右から左までハンカチでしっかりと拭いてから演奏を始めることになります。

 ところで、このハンカチにも苦労があります。それは置き場所です。男性はいいのですが、女性のドレスにはポケットがないので置き場所に困ってしまうのです。ピアニストはピアノの上にそっと置いておくことができますが、ヴァイオリニストのように楽器のソリストはそうはいきません。そこで指揮者に、「ここに置いていいですか?」と丁寧にお願いして、指揮者用譜面台や指揮台の端に置くことになります。

 僕の体験として、大概は事前にお願いされることはなく、ソリストがステージ上で困った顔をしたあとで急に頼まれるので、断りようがありません。しかし、毎回同じことを繰り返しているはずなのに、舞台上で置き場所に困っているようなヴァイオリニストが、実はすごく演奏は上手い人が多い気がします。

 もちろん統計を取ったわけではありませんが、演奏するためにやるべきこと、それが手のひらの汗対策程度であったとしても、念には念を入れて舞台にハンカチを持ってくるような緻密さがあるからかもしれません。ただ、音楽に集中するあまり、ハンカチの置き場所など考えていないのでしょう。または、「断られたことないから」と、最初から指揮台の端に置くつもりなのかもしれません。何も言わず当然のように置くソリストも多いくらいです。指揮者としては、指揮台の端であっても踏んでしまいそうなので、高級そうなハンカチだと少し気になってしまいます。

演奏の合間も大忙しの楽員たち

 さて、本番前に金管奏者が一生懸命に歯磨きをしている時、木管奏者は何をしているでしょうか。歯磨きをすることもあるかと思いますが、本番前の短い時間でリードの微調整に大忙しの作業をしていたりします。

 フルートを除いた木管楽器は、リードと呼ばれる発音体を装着した楽器が美しく大きな音に増幅させるシステムです。話はそれますが、リードの語源は河岸や湖畔に生えているアシ(reed)です。現在では、アシの一種のダンチクを使用することが多いそうですが、オーボエ奏者やバスーン奏者は、自分で一本のアシから繊細なリードをつくっており、リードづくりは奏者の演奏に関わる腕前のひとつなのです。

 オーボエ奏者である友人の家に遊びに行くと、練習室というよりも、まるで工房です。部屋の片隅にそのまま刈り取って干したようなアシが100本近く束ねてあることも普通の光景で、その横にある机の上には、まるで工芸品をつくるような多くの工具が並んでいます。さまざまな工程をオーボエ奏者やバスーン奏者はたった一人で行い、まるで透けているのではないかと錯覚するほど薄くしたリードを2枚合わせて、専用の糸で結んで出来上がりです。しかし、それでおしまいではなく、実際に楽器に取り付けたうえで最後に微調整をしていくことは、1枚のリードで音を出すクラリネットでも同じです。

 当然のことながら、アシは天然素材で全工程が手作業なので、完成品にはばらつきが生じます。最高品は、10本つくっても1本あるかないかという大変な作業です。しかも、その10本も、多くの失敗作が破棄されたのちに出来上がった完成品なので、その10本を大事にリードケースに入れて、木管楽器奏者はコンサート会場に向かってくるのです。

 しかし、残念なことにリードは消耗品なので、たとえ「この10年間で一番のリードができた」としても、吹いているとダメになってしまいます。そんなわけで、リードケースにその10本のリードを入れておいて、リハーサル用、オーケストラとの全奏用、ソロに使うとっておきのリードと使い分けて、なんとか寿命を延ばしているのです。コンサート中でも木管奏者は、シチュエーションに合わせてリードを付け替えたり、これから交換するリードを水の入ったコップに入れて湿らせたりと、大忙しなのです。

 弦楽器奏者もずっと弾き続けていることが多いですし、金管奏者も演奏の合間に管の中にたまった水分を抜かなくてはいけないので、次の出番が近い場合にはアクロバットのような作業をしています。

 そんななか、自分の出番がない時に指揮者をじっと見つめているのは、フルート奏者です。僕もデビューしたての頃は、「このフルート奏者は僕の指揮が好きなのかなあ」などと勝手にうぬぼれていたのですが、フルート奏者の友人に聞いてみたところ、「フルートは木管楽器だけどリード楽器でもないし、別段、作業をすることがないから、ただ目の前で動いている人物、つまりは指揮者をなんとなく眺めているだけだよ」ということでした。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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