ビジネスパーソン向け人気連載|ビジネスジャーナル/Business Journal
子どもも大学生も、何の知識もなく考えるように言われても、十分に考えることはできない。教科書や資料を読んで自分で考えるように言われても、だれもが自分で読んだだけで深く理解し吸収できるわけではない。知識も経験も豊富な教員がわかりやすく解説することで、学習者は知識を深く理解し、それを思考の道具として使うことができるようになるのである。「教えない教育」では、自分で自由に考えるように言われても、思考の道具として使える知識が乏しく、そのため自分の経験を抽象化することができないため、深く考えることができない。
「知識伝達-知識受容」はもう古いのか?
変化の乏しい静的な社会では、知識の伝達が価値を持ち、知識伝達-知識受容という形の教育が有効だった。しかし、これからの変化が激しく予測不可能な社会では、既存の知識の価値は薄れるため、知識の伝達・受容といった形の教育では対応できない。ゆえに知識伝達-知識受容型の教育から脱して、学習者が受け身にならずに能動的に学び、学んだことを生活実践の中に活かせるようにしないといけない。
このところの教育改革においては、そのような議論が盛んに行われている。それは部分的には正しいのだが、どうも短絡的な気がしてならない。
ITの発達により私たちの生活は目まぐるしく変化し、この先どのような社会になっていくかの予測は非常に難しい。だが、私たちがこれまで学んできた知識というのは、社会が変化したら意味がなくなるものばかりではないはずだ。私は、社会の変化にどう対応していくか、あるいは社会をどんな方向にもっていくべきかを考えるにも、知識が大きな力になると思う。
教育改革に関する議論の中では、もはや知識を学ぶ時代ではない、自ら考えるような学びを中心にすべきであるというようなことが言われるが、知識がないより知識があるほうが思考が深まり、適切な判断ができる可能性が高いはずである。
たとえば、戦国時代の人々の生活様式と現代人の生活様式はまったく異なるし、江戸時代の人々の生活様式と現代人の生活様式もまったく異なるが、それぞれの時代の思想に関する知識も、文学に関する知識も、歴史上の出来事に関する知識も、現代を生きる私たちにさまざまなヒントを与えてくれる。
最先端の技術的な知識ばかりが取り沙汰されるが、目まぐるしく変化してきた科学技術も、それを支援してきた政治体制も、思想と深くかかわっているし、人間の普遍的な欲望とも深くかかわっている。