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マヂカルラブリーの優勝で幕を閉じた2020年の「M-1グランプリ」。ネットには、その優勝の是非を問う記事がたくさん流れている。中でも目立つのが、「あれは漫才なのか?」「昨年のミルクボーイのすごさがよくわかった」という、「漫才」のあり方に関する内容だ。
いろいろな記事を見て、「そもそも『M-1グランプリ』を『漫才の賞レース』としておきながら、『漫才とは何なのか』という定義がしっかりと設定・公表されていないから、たくさんの混乱が起きたのではないだろうか」という仮説が浮かび上がってきた。
筆者はひとりのお笑い好きにすぎないが、ひとつの説として検証してみたい。
「漫才の形」ってあるのか問題
漫才の基本は、2人のしゃべりの掛け合いだ。いわゆる「しゃべくり漫才」が王道とされている。だが、コントや歌をメインに持ってくるものもある。その2つが漫才かどうかというと、多くの人が「漫才(の一種)」と答えるだろう。
筆者が生まれる前のことだが、昭和の大人気漫才コンビのエンタツ・アチャコの「早慶戦」はコント漫才に区分されるようだし、歌なんて日本というより世界の演芸の一種だ。より新しい笑いを求めて、しゃべくり漫才にこれらの要素をスパイスとして加えるのは、自然なことなのだろう。
ただ、一人ひとりに、その人なりの漫才の輪郭が存在するのも事実だ。筆者は吉本興業のお笑い圏内で育ったため、「マヂカルラブリーのスタイルは漫才なのか?」と問われると、正直答えに困る。
しかし、どんな変化球だろうと、本人たちが「漫才」だと言うなら、それは漫才なのだ。それに、マヂカルラブリーのネタには、近年、漫才に必要だと言われている「人柄」がしっかり出ていた。そのため、大きな声で「あれは漫才だ!」とは言い切れないが、「漫才と言われれば、漫才なのかもしれない」と思う。
「漫才」の規定がないからこそ票が割れる
例年通り、今年も審査の是非を問う記事が出ているが、ここでも「漫才の定義」の有無を軸に考えることができる。最終決戦の得票数は以下の通りだった。
●マヂカルラブリー(3票)
→サンドウィッチマン・富澤たけし、立川志らく、中川家・礼二
●おいでやすこが(2票)
→ダウンタウン・松本人志、上沼恵美子
●見取り図(2票)
→オール巨人、ナイツ・塙宣之
マヂカルラブリーに票を入れた3名は、漫才の形よりもおもしろさに重きを置き、おいでやすこがに票を入れた2名は漫才の形×おもしろさを総合的に見ており、見取り図に票を入れた2名は漫才の形を重視した結果だと分析できる。
個人的に驚いたのが、中川家・礼二の票がマヂカルラブリーに入ったことだ。おいでやすこがか、見取り図のどちらかに入れるものだと思っていた。
しかし、彼は漫才以外も達者な笑いのオールラウンダー。中川家の漫才のスタイルは王道と言われるしゃべくり漫才が基本だが、脱線に次ぐ脱線が持ち味だ。そのため、筆者は「中川家=王道」とは思っていない。漫才の形を意識していたが、自分の中のおもしろさが勝ったために、マヂカルラブリーに投票したのだろう。