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『鬼滅の刃』で論争、遊郭の作品利用を忌避すべきではない…普遍的価値の認識こそ重要

文・構成=菅谷仁/編集部、協力=渡辺豪/カストリ出版代表

「子どもにとっての遊廓」ではなく「大人にとっての遊廓」

 現代は、インターネット上の性風俗情報や遊廓を扱うサイト、SNSアカウントを運用するセックス産業に対して、掌にあるスマホを通じて容易に繋がることのできる社会である。都市部に住む児童であれば、通学路の途上、性風俗街を垣間見ることもあり得るだろう。

 現代のセックスワークとかつての遊廓を混同し得ないことは言うまでもない。ただし、大人が目を背けがちな情報に接した子どもが「セックスワークって何?」「遊廓って何?」と問う相手は、常に大人であり、しかもそうした問いが発せられる状況は、これまでのどの時代よりも高まっていることを、強く意識したい。

鬼滅の刃』作品内で遊廓が高尚に描かれようが、興味本位に描かれようが、私たち大人は、子どもの問いから逃げることはできない。論争の本質は、『鬼滅の刃』という一作品性の如何を超えている。

 本質は「子どもにとっての遊廓」ではなく、「大人にとっての遊廓」の捉え方であり、今回の論争は、歴史を取り扱う大人の能力を、わかりやすく炙り出している。

 私たち大人は遊廓について説明する言葉を失っている。もちろん、人によって遊廓についてのスタンスは異なる。否定的に見る向きもあれば、肯定的に見る向きもあり、総論各論それぞれがグラデーションである。しかし散見される論争の少なくないものは両極からの意見対立であり、極論化は知識の貧しさを反映していないだろうか?

 遊廓が「子どもに与えるには早い」情報であるとするならば、遊廓について知り、学ぶ機会を、私たちが子どもから大人になる過程において、どれだけ持っているだろうか? 確かにAmazonで検索すれば、遊廓に関連した書籍が大量に提案され、機会に事欠かないように見える。が、実際に売買春が行われていた場である娼家といった一次資料に接する機会は失われている。量的に恵まれていても、質的には置き去りにされている。一次資料は一部の研究者ばかりが重用するものではなく、私たち一般人こそ、一次資料に接することで、過去と真摯に向き合う心が醸成されるのだと私は考える。

 冒頭、遊廓は数値の上ではコンビニ感覚に近いほど身近な一面もであったと述べたが、しかし近年、遊廓の存在を示すもの、例えば娼家やそこで使われてきた資料(大福帳など)は急速に失われており、私たちの知識(記録や記憶)から急速に抜け落ちつつある。私はこれまで10年ほどかけて全国の娼街を500箇所内外取材してきて、それを肌感覚で感じている。

 遊廓についてなんらかの公的な資料館、それも専門家による多くの議論を重ねて、コンセンサスを得た施設などがあれば、今回の論争もまた違った方向に向かっていったかもしれないと想像している。仮に子どもからの同様の問いや議論がなされたとき、「では、遊廓の資料館に行こう」と応えられたはずである。当然、子どもの知覚ではすべてを理解はできない(大人ですら理解できるとは限らない)だろう。しかし、子どもが理解への手掛かりを得る価値は計り知れない。大人が子どもに与えるべきは、完全なレクチャーよりも、掴むべき手掛かりである。

 許しがたいほどの女性の窮状があればこそ、私たちはそうした歴史の一部を保存し、例えば先に挙げた資料館などの施設を通じて価値を普遍化するべきだった。が、私たちは遊廓の歴史を忌避し、不可視化してきたことによって、「遊廓なるもの」の捉えどころをなくしてしまった。

 価値の普遍化があろうとも、遊廓という人間の性(さが)に根ざした問題が持ち上がれば、常に異論百出するだろう。しかし私たちは普遍化によって標準的知識、換言すれば共通語を持つことができる。

「解釈」「価値観」という、便利でかつ他者が踏み込みがたくする言葉の下に分断され、次世代の子どもたちに継ぐべき言葉を私たちは失っている。

 以上が、今回の論争から得た私なりの雑感である。

●参考文献

売春対策審議会『売春対策審議会資料』(1957年)

小野沢あかね「戦前日本の公娼制度と性奴隷認識」『性奴隷とは何か シンポジウム全記録』所収(2015年、御茶の水書房)

(文・構成=菅谷仁/編集部、協力=渡辺豪/カストリ出版代表)

 

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