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鬼塚眞子「目を背けてはいけないお金のはなし」

苦難の連続…かもめの玉子「さいとう製菓」、極貧の餅店から世界的菓子メーカーへの軌跡

文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表
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かもめの玉子

 さいとう製菓は、震災の年の4月6日に大船渡市内にあるスーパー内の店舗を再開、4月20日には震災前の約8割にあたる1日に15万個の製造を復活、21日には岩手県内の6店舗を再開させることができたのです。

 そんななか、経営者である齊藤会長は経営の建て直しに必死でした。3億1000万円の損害の補填のために、自己資金やグループ会社からの補助金の調達、銀行からの融資も受けました。

 さらに同社は地震保険にも加入していました。損害保険料率算出機構によると、地震保険の2011年の全国平均付帯率は53.7%でしたが、震災後、同年の岩手県の加入率は56.7%です。これは北海道・東北6県の中で、北海道、山形に次ぐ低さでした。ちなみに震災後、19年の地震保険付帯率の全国平均が66.7%なのに対し、岩手県は72.3%と大幅に伸展しています。

 保険料が高いからという理由で地震保険の加入をためらう方が多かったなか、齊藤会長が地震保険に加入していたのは、同社と齊藤会長の運命を大きく変える出来事があったことためです。

2度目の津波

 実は齊藤会長にとっても、大船渡市にとっても、津波被害は2度目だったのです。これまで発生した巨大地震のなかで最も規模が大きい地震といわれているM9.5のチリ地震が1960年5月22日に発生しました。この余波を受けて、三陸海岸を中心に津波が発生、結果的に大船渡市は、当時の日本国内でチリ地震の被害を一番受けた地域といわれています。

 その頃、さいとう製菓は、被災した本社の場所に店舗兼自宅を構えていました。創業は1933年で、齊藤会長の祖母が家の前を行き交うセメント工場に勤務する人を相手に、手づくりの大福や餅やゆべしを販売した「齊藤餅店」が始まりです。戦争で一時中断していたものの、やはりお客様の声に押されて再開、齊藤会長の父が後継者となりました。

「廊下を改造したわずか1坪の作業場に、祖母や両親と6人の兄弟全員でひしめきあってつくっていました。その頃、祖母も元気で、『商売は信頼、一個の餅にも手を抜くな』と徹底的に叩き込まれました」

 材料にこだわり、手間と労力をかけてつくった餅は評判でしたが、その分、儲けは本当に少なく、齋藤会長の父は別の仕事との兼業で家計を支えていたのです。中学1年生になっていた齊藤会長は、朝は4時に起きて餅づくりを手伝っていました。そんな毎日を続けていた中学3年生の時に、「無理がたたったのか、父が病に倒れました。その後も父は入退院を繰り返すことになり、わずか14歳の私の肩に一家の生活がかかったのです」。

 齊藤会長は勉強や部活に打ち込んでいる同級生を横目に、登校するまで自転車であちこちに売りに出かけました。売れなければ今日のご飯もどうなるかわかりません。幼い兄弟の顔を思い出しながら、挫けそうな心を奮い立たせてみるものの、「どうして自分だけがこんな人生なんだ。こんな暮らしはもうたくさんだ」と人目を忍んで号泣したことも何度かあったといいます。

 その後も、齊藤会長に苦難が降りかかりました。高校に入学すると、創業者の祖母が入院し、その看病を担うことになったのです。寸暇を惜しんで店も手伝い、病院から学校に通う生活でした。

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