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鬼塚眞子「目を背けてはいけないお金のはなし」

苦難の連続…かもめの玉子「さいとう製菓」、極貧の餅店から世界的菓子メーカーへの軌跡

文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表
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 もともと素人が始めた餅屋が老舗に勝負したところで先は見えています。そこで齊藤会長の父である俊雄元社長は病を抱えながら、観光客を相手にした商売を始め、齊藤菓子店と屋号を変え、1951年、大船渡の特性を活かした5つのお菓子を考案しました。その中の一つが、初代「鴎の玉子」です。カステラと饅頭、つまり和と洋をコラボしたお菓子は当時としては画期的な商品で、珍しさもあって評判もよく、売れ行きも順調でした。

 さらに、嬉しいことが起こりました。1953年、大船渡の市制記念として、ミス大船渡のイベントが開催され、その商品として「鴎の玉子」が採用になったのです。このことで地元の評判を呼び、「鴎の玉子」は売り切れ状態が続き、社員も12人まで増えました。

「鴎の玉子」を起死回生の商品に

 手応えを感じ、お菓子屋として発展させたい父とは違って、苦しい暮らしだった家業に未来を見いだせず、柔道をやっていたことや同級生が警察官を目指していたことに影響を受け、齊藤会長は盛岡の警察学校に入学しました。

「これでやっとあの生活とは、おさらばできる」と安堵したのも束の間、同社と齊藤会長の人生を大きく変えるチリ地震が発生したのです。店舗兼自宅は流されずに済みましたが、被害に遭った家屋が家の中に流れ込み、全壊しました。病弱の父、看病をしている母に代わって、盛岡から呼び戻された齊藤会長と弟2人が後片付けをすることになりました。想像以上に後始末に時間がかかり、盛岡に戻る日が遠のくばかりです。ついに警察学校に戻ることを断念せざるをえなくなりました。

 お客様の声に押されて、齊藤菓子店は再開したものの、すべてを失い、経済基盤も脆弱で、ゼロからどころかマイナスからのスタートです。入退院を繰り返している父の様子を見て、社員も次々に辞めていきました。お金もない、人もいない、今と違って物流も情報も発達していない駆け出しのお菓子屋にとっては、まさに八方塞がりでした。再び、家族だけで細々と餅を売る毎日が始まりました。

 1961年、齊藤家の窮状を打破するため、親戚のアドバイスもあり「鴎の玉子」を起死回生の商品にすることにしました。これまでは平べったい形でしたが、俊雄元社長は、同じトライなら、本物の玉子に形を似せることを目指して、挑戦が始まりました。厳しい経営に変わりはありませんでしたが、ようやく今のコロンと愛らしい形が完成したのは6年後の1967年。数え切れないほどの失敗を繰り返したといいます。

「チリ地震後の齊藤菓子店の再建は苦難の連続でした。毎日が試練で、ただただ必死にがんばり抜くだけでした。二度と経験したくないことばかりでしたが、この経験があったから、東日本大震災でも前向きに立ち向かうことができたのだと思います」(齊藤会長)

 しかし、そんな齊藤会長は、身を切られるほど辛い決断を強いられることになります。

(文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表)

※後編へ続く

●鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表

出版社勤務後、出産を機に専業主婦に。10年間のブランク後、保険会社のカスタマーサービス職員になるも、両足のケガを機に退職。保険業界紙の記者に転職。その後、保険ジャーナリスト・ファイナンシャルプランナーとして独立。両親の遠距離介護をきっかけに(社)介護相続コンシェルジュ協会を設立。企業の従業員の生活や人生にかかるセミナーや相談業務を担当。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などでも活躍。

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