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江川紹子の「事件ウオッチ」第173回

福島原発事故から10年…「被ばくで健康被害」のデマとメディアの責任【江川紹子の考察】

文=江川紹子/ジャーナリスト

風評被害を拡散させたマンガ『美味しんぼ』を繰り返し“擁護”したマスメディアの責任

 UNSCEARや日本学術会議などの機関を含め、科学者が出す報告の多くは、「安心」「安全」など主観が混じる評価には抑制的だ。そのうえ、メディアがこれを報じる際、「不安」を訴える声や「危険性」を強調する意見を、科学的根拠が薄くても、「主流」に対する「異論」「反論」という形で扱うことがしばしばある。

 こうした報じ方は、一見バランスのとれた報道のような外観を整えることができ、メディアは危険性を無視したわけではないという、という弁明にもなる。

 メディアの保身的態度は、科学的な見解についての人々の理解を妨げたり、デマの流布を支えてしまうことにもなりかねない。その典型的な事例が、マンガ『美味しんぼ』(小学館)を巡る騒動での一部メディアの報道だった。

 このマンガでは、福島で鼻血を出す人が増えているかのような描写が執拗に現れ、それが被ばくと因果関係があると強く印象づけたうえで、同県内で行われていた除染は無駄だと主張。福島から「逃げる勇気」を持つよう、住民に呼びかけた。

 鼻血の原因はさまざまであるうえ、福島で鼻血が増えた、とするデータは示されていない。そもそも、鼻血が出るほどの被ばく線量であれば、体の他の部分からも出血するなど、全身状態は悪化しているはずだ。

 放射線防護学の専門家として、日本の原発政策には批判的な野口邦和・元日本大学准教授は、騒動直後から、このマンガを批判。原発事故10年を前に朝日新聞デジタル「論座」に投稿した論考のなかでも、マンガの描写について「デマであり、放射線医学的には最初から議論にもならない低俗な代物」と極めて否定的な評価をしている。

 けれども、当時はこのマンガを擁護したり、否定的な評価をためらうメディアもあった。たとえば毎日新聞。同紙社説は、「『鼻血』に疑問はあるが」と控えめな論評にとどめ、「(この漫画が提起する)原発の安全性や放射線による健康被害を自由に議論すること自体をためらう風潮が起きることを懸念する」と、むしろ批判側を牽制した。

 さらに、雑誌でこのマンガの連載が終了することを社会面で伝えた2014年5月20日の同紙記事は、野口氏の批判コメントに対して、「(被ばくと鼻血に)因果関係がないという証明はされていない」とする疫学研究者の発言をぶつけるなど、あらゆる点において両論併記を展開する記事となった。ちなみに、この時期はUNSCEARが2013年報告書を出した後である。

 また、朝日新聞は繰り返しマンガ原作者の「反論」を掲載。「安全性を検証するための疑問や言葉が封じ込まれ」る懸念を挙げて、「大事なのは、議論すること。私の意見が間違っているというのなら、一緒に議論しましょうよ」という作者の声を伝えた。

 こうした論法は、ナチスによるユダヤ人虐殺や関東大震災後の朝鮮人虐殺を否定しようとする「歴史修正主義者」が、「議論」を呼びかけるやり方に似ている。あり得ない事実を、歴史的事実や科学的な論拠と対等な立場で「議論」の場に載せることで、あたかもまっとうな意見のひとつであるかのように人々に錯覚させる手法である。

 東京新聞も2014年5月14日付けの社説で、『美味しんぼ』騒動を取り上げた。このマンガが表現上の「配慮」に欠けている部分があるとしながら、「問題提起」として評価。マンガを問題視する声を、「時間をかけた取材に基づく関係者の疑問や批判、主張まで『通説とは異なるから』と否定して、封じてしまっていいのだろうか」と批判した。

 デマに類する言説を、「通説とは異なる」意見のひとつとして擁護することが、マスメディアの役割といえるのだろうか。

 朝日新聞や東京新聞などでは、このマンガ以前に、原発事故が起きたあとかなり早い段階から、鼻血を訴える人の声が掲載されてきた。それを評価する読者も少なくなかったのだろう。安全だったはずの原発で大事故が発生し、政府や科学者への不信感が広まるなか、不安を煽ったり危険性を誇張する言説が容易に受け入れられる風潮が蔓延する素地ができていた。

 本来であれば、メディアはそうした不安を受け止めたうえで、「誤った先入観や偏見」を修正する方向の情報も、その価値を吟味したうえで、積極的に、繰り返し、わかりやすく伝える努力が必要だったのではないか。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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