NEW
「偉人たちの診察室」第12回・松永久秀

精神科医が語る“戦国一の極悪人”松永久秀…信長の持つ革新性への無理解から裏切った?

文=岩波 明/精神科医
【この記事のキーワード】, ,
精神科医が語る“戦国一の極悪人”松永久秀…信長の持つ革新性への無理解から裏切った?の画像3
室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝。1565年、三好義継・松永久通らに襲撃され、命を絶った。この「永禄の変」の首謀者が久秀だという説もある。画像は、室町時代の絵師・土佐光吉による「足利義輝像紙形」(Wikipediaより)。

主君・三好長慶の嫡男を殺し、将軍足利義輝を自害に追い込み、東大寺に火を放ったとされる松永久秀

 これ以後、しばらくの間は比較的平穏な時期が続いたが、1563年頃より状況は一変した。この年の6月、三好長慶の嫡男である三好義興がわずか22歳で死去した。後にこれは久秀により毒殺されたという噂も流れたが、根拠はない風説のようで、同時代にそのような記録は残されていない。しかしいずれにせよこの義興の死をきっかけとして、三好氏の覇権は大きく揺らいでいく。

 1564年には、長慶は弟である安宅冬康を飯森城で殺害した。この事件は久秀の讒言によるものといわれているが、長慶自身もその2カ月後に病死してしまった。このため長慶の養子である三好義継が三好家の後継となり、久秀と、いわゆる“三好三人衆”がこれを補佐することとなった。

 将軍の弑逆という大事件が起きたのは、1565年のことである。三好義継、松永久通(久秀の長男)らが京都の二条御所を攻めて、将軍である足利義輝を自害に追い込んだ(永禄の変)。

 この事件の真相は明らかになっていない。久秀を黒幕と主張する者も多いが、久秀自身はこの事件の際には大和にいたことが明らかになっており、確実な証拠はみられていない。当時日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスは、久秀が黒幕であると述べている。ただしフロイスの書簡はその晩年に記載されたものであり、同時代の資料ではない。

 将軍殺害の後、久秀は一時三好三人集と敵対し、1566年、戦乱のなか、東大寺の敵方を攻めた際に、大仏殿に戦火が及びこれが全焼してしまう。ただしこの火災は松永方が意図的に行ったものではないようであり、三好方が火を放ったという話もある。

 この年の末、久秀は領国の支配を確立するため、新興勢力である織田信長と同盟を結んだ。久秀は三好三人衆の攻勢に苦しめられたが、翌年の信長の上洛により息を吹き返し、大和の奪還にも成功した。以後、久秀は信長の配下の武将として大和の国に君臨する。

 ところが1573年、久秀は突然信長に反旗を翻し、足利義昭とともに大阪方面に兵をすすめるが、その年の10月に多聞山城を攻められて降伏してしまう。久秀は城を明け渡し、信長の軍門に下った。しかし久秀はそのまま信長の配下に置かれることを潔しとせず、1577年、再度反旗を翻し、自らの城である信貴山城で壮絶な最期をとげている。

松永久秀は織田信長の持つ革新性についていけなかったのではないか

 それでは実際の久秀はどのような人物だったのか。

 彼は明らかに「成り上がりもの」であったが、成り上がるにふさわしい実力を持った人物であった。戦にも強いが領地の管理能力もあり、また茶に詳しい文化人でもあった。このため、一時は畿内の覇者となった三好長慶から重用されたのである。また自国においても善政を行ったことで知られ、領民からも慕われていたという(松尾和彦『悪役たちの日本史』叢文社)。

 ただし下克上を体現した人物であったにもかかわらず、久秀には信長のように旧来の制度を大きく変革する技量と意思は持ち合わせなかった。また世の中の覇者になろうという野望を持っていたわけでもなかった。

 久秀はいったん信長の配下となったが、繰り返し反旗を翻したのは、信長の持つ革新性についていけなかったからのように感じられる。そういった意味では久秀は旧秩序の中にいる人物であり、「悪の帝王」のように語られることが多かったにもかかわらず、実はまっとうな常識人であったようにも思える。

 この松永久秀の話からは、海外の話ではあるが、英国の国王であったリチャード三世のことが連想される。中世の英国、リチャード三世の在位は1483年から1485年のわずか2年あまりであったが、シェークスピア作品のタイトルになっていることもあり、その名は広く知られている。

 リチャード三世の時代は日本の室町時代にあたり、1467年の「応仁の乱」以降、いわゆる戦国時代の前期にあたる時期である。

RANKING

11:30更新
  • 連載
  • ビジネス
  • 総合